キリマンジャロ登頂記

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6. 8月14日(金)
  やはり6時前に目覚める。今朝も便通があり、体調も良し、気分も良好である。今日も約9キロ、5,6時間かけて1000mの登りだ。登りだして右手にマウェンジー峰が見えてきた。4000mを越すと潅木地帯に入る。キリマンジャロが次第に近づいてきた。白い雪をかぶりその姿を全て見せてくれている。とても雄大な山だ。2時間以上かかってLast Water の地点にやって来た。ここはまさしく最後の水場で、ポーター達はせっせと水を汲んではバケツよりも大きなポリ容器に入れていた。この上のキボハットでは水が全くなく、ここで炊事や料理用の水を調達しなければならないのだ。「水が一杯入った丸いタンクはずいぶんと重いだろうなあ」と心配していたが、彼らはそれ程気にしなく軽々?と持ち上げて登っていった。毎度のことであろう、いや仕事だから。
  私も少し休憩を取る。ここから少し行くと砂礫地帯に入った。右にはマウェンジー峰が大きく見えいつまでも付いてくる。やっぱり広い。日本の山とは桁違いだ。4000mも越えたところにこんな広大な高原が広がっているのだから。歩く向こうに道が稜線の中に消えている。1時間以上歩き続けても同じような道がまだ続いている。3日間も歩き続けてもまだアプローチは終わらない。一体どこまで続くのか?もう4500mの高さに来ているようだ。体調はまずまずだ。最後の稜線を越えてやっとキボハットが視界に入ってきた。あとひと踏ん張り、"Pole,pole" と進んでいく。小屋が見えてから1時間もかかり、遂に最後の山小屋キボハットに到着する。
  小屋に入って休んでいると少し偏頭痛がしてきた。ひどくならなければよいがと祈る気持ちだ。ここは標高4703m。モンブランの頂上より少し低いだけだ。あの時は大丈夫だったので、今回もたぶんいけるだろうと楽観的に考え少し気分が楽になった。こんな高いところにまで登ってきたのは人生でこれで2度目。少し感動を覚えた。このハットは1棟で中に小部屋があり、12人にそれぞれのベッドが与えられていた。しかしあとで着いた日本人グループの3名のうち2名が一つのベッドで二人寝ることを強いられていて気の毒だった。予約がうまくいかなかったのか、ガイドの責任ではないのかと思った。あと同室にはポーランド人の父親と娘の親子、ヨーロッパ系の人が入った。
  部屋でじっとしていると急に体が冷えてきたので長袖のアンダーの下にもう一枚半袖を着てウールの山シャツとセーターを着ておくことにした。これで寒さはとまった。なにせ4700mもの所にいるのだから夜はかなり温度が下がるに違いない。今までに経験したことのない気温になるだろうと予想した。そうそう忘れていた、同じパーティーの仲間の話をしておこう。6人は年齢順に私が一番年上(56歳)で、浅田さん(46歳)、松井さん(35歳)、末永さん(女性・32?歳)、この3名が同じ小学校の先生で、あと寺本さん(37歳)、職業を聞き忘れたが、ネパール、ヒマラヤなどトレッキングによく行き5000mは体験しているらしい。そしてもう一人山崎さん(26歳)、学生で彼だけが東京から参加している。驚いたことに浅田さんはこのキリマンジャロに2度目のチャレンジをしているそうだ。この中で一番体調を崩しているのが松井さん。キボハットへの途中にに気分が悪くなりもどしたらしい。ここまで登ってきたが夕食を食べられなくなり浅田さんがホエーブスで湯を沸かしおかゆを作って食べさせてあげていた。今日の登りも末永さんと松井さんが一番最後に到着。6人の中で一番元気なのが寺本さん、若い山崎さん、あと浅田さんそして私の順かな?
  しかし良くここまでこれたものだと私は自分で感心していた。でもこれからがいわば本番なのだ。3日間歩き続けてやっとアプローチが終わったばかりである。明日はギルマンズポイント(5682m)まで一気に登りきり、更にウフルピーク(5895m)の頂上までなんとしてでも行かねばならない。モンブランに登頂して3年目、昨年実行する予定だったが腎臓結石のため断念している。今回実現しなかったら果たして再度これるかどうか、それはわからない。自分の人生での大きなチャレンジなのだ。気軽な気持ちでここへ来ていない。是非とも成功して帰りたい。はいつくばってでも山頂に立つんだ。という気持ちの高揚が何度も強く起こってきた。しかし偏頭痛がする。高山病が出てきているのだと心配になってくる。水を多くのみ少し様子を見る。頭痛が出たりとまったりの繰り返しだ。
  夕食はこの同じ部屋ですることになった。いつもの料理が出てくる。シチューを少し口に入れるが、2口目が入らない。食欲が出てこない。「どうしようか?食べないと明日が持たない。」無理に口に入れても気分が悪くなるだけだ。日本から持ってきていたおかゆ、梅干、味噌汁を取り出し、お湯を入れて食べる。これはまあ美味しく食べられた。とにかくお腹に何か入れられて良かったと一安心をする。
  他の仲間は、松井さんひどく疲れている。末永さんも体調が良くない。まず見たところこの二人は明日はもうこれ以上高いところへは登れないだろう。ガイドのトーマスも心配して何度も見に来てくれていた。通訳を私がやり本人に伝える。あるいは本人の様子をトーマスに説明し明日どうしようかと相談する。とにかく明日の朝、朝といっても今夜の11:30起床。12時に チャイ と ビスケットを食べて12:30出発予定だ。出発前に二人の様子を見て最終判断することになった。選択肢は@登らせる Aハットでみんなの帰りを待つ B高山病の疑いがあり体調悪ければ下山させる。 この3つである。本人達は行きたいといっているが、松井さんは昨夜もほとんと食べていなくて今日ここまで登ってきた。その上今夜の夕食も口に入れないで寝ている。このハットに着いた時、浅田さん寺本さんらが二人で今日もビールを買ってきてはみんなに勧めていたが、松井さんはビールなら飲めるといって飲んでいたのだ。私は断り彼にも高山病には良くないからと止めるように言ってやったが、止めなかったのがとにかく気になっていた。高山病にはアルコールが良くないと注意書きにもあったので、私はとにかく健康管理を第一に考え一滴も口にしなかった。ここで調子を悪くすれば元も子もないと自分に言い聞かせていたのだ。山小屋に着いて喉の渇きを潤すのにビールがどれ程美味しいものかはわかっており、実は飲みたいのを我慢していたのである。夕食を済ませ、トイレに行き、一刻も早く寝ることにした。

1. 8月9日(日)
  とにかく行くと決めて家を10時に出た。数日前にケニヤのナイロビとタンザニヤのダルエスサラームにあるアメリカ大使館が同時爆破され、これから行こうとしているナイロビはとても治安がよくないと思われた。まさに出鼻をくじかれたようになり、行こうかそれとも止めようかと色々悩んだ末の出発であった。妻はもちろん政情不安を理由に大反対だった。しかし半年以上も前に計画し毎日走りこんだりしてこの日のために体調を整え、人生での大仕事、モンブランよりももう1000m高いほぼ6000mの頂上に立つことを、やろうとしていたのである。やはり行くことにした。「爆破騒ぎのあとではきっと空港や町でのセキュリティがしっかりしていて安全であろう。」と判断した。

キリマンジャロ登頂記 はこれで終わろうと思う。このあとまだまだ日本に着くまでの出来事などがあるのだがそれは省くことにする。最後に苦労を共にした5人のことについてもう少し触れておきたいと思う。(5名は全て仮名です。)
 浅田さん:山が好きで昔懐かしいホヘーブスを持ってきてみんなに温かい飲み物など良く作ってくれ        た。話が上手でいつも我々に話題を投げかけてくれた。私が一番相談した人だった。キリマンジャロ2回登頂という凄い人。
 寺本さん:まだ若く体力もあり私同様体調が良かった。酒好きでよく浅田さんと飲んでいた。ネパール       の高地トレッキングで5000mを経験している。また外国などへよく行っている人。
 末永さん:紅一点であり小柄ながら良く頑張った人。残念ながらキボハットどまりとなってしまい登頂        できなかったが次回チャンスがあれば成功できるだろう。日本では毎日30〜40分走りこんでいたらしい。これは浅田さんも同様。
 松井さん:途中で体調を崩し本当に残念だったと思う。
 山崎さん:一番若かった。元気も一番でいつも先頭を行ってたようだ。もう一息と言うところでウフルピ       ークまでいけずに残念だったと思う、でもまだまだ若いのでまたチャレンジして欲しい。
  
 私はこの仲間達に支えられながらこの山行きが成功したものだと思っている。一人で登って果たして登頂できたかどうか疑問だ。肉体的にも精神的にもとてもきつく、辛い山行きだったから。
     

少し下り始めると体が温かくなってきたのでオーバーズボンとタイツを脱ぎ歩きやすくした。キルマンズポイントからの下りは雪と氷などで悩まされた。ポーランドの親子が登ってきたので、"Good Luck!" といって声援を送った。雪やガラ場が終わると砂地の多いところに出た。ダスティンのあとについていくことにした。彼はジグザクのコースを取らないで一直線に砂地の上をまるで雪上のグリセードのようにしながら下りだした。速い!私もやってみた。一歩足を下に出すとズズーと砂に入りそして止まる。次にもう片方を同じようにやってみる。またズズーと止まった。これは速いし面白い。ズズー、ズズーとスピードが出だしダスティンと横並びでどんどん下っていった。かなり下った所に「Hans Meyer's Cave」があった。ハンスメイヤーは一番最初にこのキリマンジャロを征服した人でその人の碑がある所。ここで休憩しているとあとの二人がやってきて私の下りの速さに驚いていた。下のほうを見るとキボハットが視界に入っている。ここまでくれば安心と気分が楽になった。ダスティンがビスケットを2つくれた。落ち着いて考えてみると今日登り出してからチャイ一杯飲んだきりであとは何も食べていない。もう10時半を過ぎている。ビスケットと水で遅い朝食とする。とても美味しかった。3人が揃ったので出発しようとしていたらスペインのパーティーが下ってきた。よく見ると1名が真ん中でストックで4人に抱えてもらってぶら下がっていた。どうやら足をやられたようだ。下っては止まり下っては止まりして降りていった。私たちも立ち上がり下り始める。すると歩きやすい登山道に変わった。悪戦苦闘しながら怪我人を降ろしている先ほどのパーティーを追い抜くときに、私はキボハットには怪我人用の一輪車がある事を知っていたのでそのことを教えてやろうと英語で話しかけたがどうも通じなくてジェスチャーで言ってみてが駄目だった。あとでの情報によるとこの怪我をした男性は(60歳ぐらい?)ギルマンズポイント付近で足を滑らせて岩の間に落ち足と頭を打ったったようだった。更に下って行くと下からポーター達が一輪車を押し上げて上がってきた。私が言うまでもなくすでに手配が出来ているのだと安心をする。そんなこんなでキボハットにたどり着く。12時が過ぎていた。
  浅田さん寺本さんらは眠いといって仮眠をする。私は寝袋を出さないでそのまま横になっているがやはり冷えて寒い。寝ると駄目だと思い、ランチを食べようとしたが疲れが出てきて喉に通らない。食パン、スープ、果物だったがスープと果物で少し空腹を満たし出発の準備にかかった。今夜はこのハットではなくまだ9キロ下ったホロンボハットまで行かねばならない。あまりゆっくりはしていられない。仮眠を取っている二人を起こし1時過ぎに出発する。「今日はもうこれで12時間も登ったり下ったりしていることになる。あと4時間はかかるだろう。とにかくマイペースで下ろう。明るいうちに着ければ良い、一晩寝れば明日は15キロの下りだが多少楽になるだろう。」といつものように楽観的になる。我々がキボハットに着く少し前に松井さん末永さんらがポーターに助けられながらハットを出た模様。我々が着くのを待っていたけれど体調が良くならず先に出発することになったようだ。速く行けば追いつくかもしれないと二人はペースを上げて下っていった。私は相変わらずのマイペースだ。とにかく1時間は止まらずに歩こうと決めた。ピーターがついていてくれていてこのペースだとどれくらいで着くのか尋ねてみた。「2時間半」と彼は答えたので、少し気分が楽になった。1時間下ったところに休憩所があり休む。私は大地にリュックを枕にして大の字になり5分寝ることにした。水分を補給し、日本から持ってきた黒砂糖あめを食べた。ピーターにも分ける。再出発し、次の1時間を目指す。ただひたすら歩くだけ。単調な作業だ。疲れているので時々意識がボーとする。足を滑らせたり石につまずいたりしてしまう。こんなときは喋るのがいいと思いピーターと話す。ピーターの事を色々聞いた。彼はチャガ族で32歳、結婚していて、2歳と6歳の子供がある。月に2回程度このガイドの仕事がある。トーマスと比べたらそんなに英語はうまくない。家では畑があり野菜や果物を作っている。ガイドにはこのように兼業農家の人が多いようだ。トーマスもそうらしい。チーフガイドになるためには英語をしっかりと話せるようになる必要があり勉強してチーフになりたいと考えている。ここのガイドやポーターはみんなチャガ族がやっている。などの話であった。
  時々後ろを振り向きキリマンジャロを眺める、そして納得する。1時間後再び休憩を取る。じっとしていると実に静かだ。時々吹いてくる風の音しか聞こえない。登山者やガイドたちが時たま追い抜いていったが、もう誰も後から来ていない様子。遠いアフリカの大地で、しかもあの有名なキリマンジャロの裾野の大草原で大の字になって自分は今空を見て寝ている。なんともいえない境地だ。贅沢なことだ、そして幸せだと思った。
  さて出発だ。ピーターの話だとあと小一時間もすれば小屋が見えそうなのだが歩いてもどうもおかしい。よく考えれば Last Water がまだ来ていないではないか。あれは登りの半分の少し手前だった、愕然とする。とたん足が重くなった。あの2時間半というのは彼らのペースでのことだったんだ。なるほど追い抜いていくポーターたちはみんな速かった。どんどん姿が小さくなっていった。私はその半分よりも遅い、仕方がないとあきらめ少し気を取り戻す。あれやこれやいらん事を考えたりして単調な下りのしんどさを紛らわせようとした。
  ラストウオーターがやって来た。少し手前で休んだのでそのまま進み3回目の休憩を取る。ピーターにあとどれくらいかと尋ねたいが1時間なんていわれたら又落ち込むに違いないので聞くのが怖い。でも登りの時の記憶がはっきりしていたのでもう少しだということに自信があった。それで聞いてみた。「25分」 まてよ、前の事もあるし彼の25分と言うのは自分なら40分ぐらいかなと大目に見積もる。そのほうが着いたときの喜びが大きい。そうこう考えているとハットが見えてきた。結局40分ぐらいでたどり着いた。4時半だった。このハットに着いた中で私が一番遅かったようだ。最後までついてくれていたピーターに握手をし礼を言って自分の小屋を探す。先に着いていた浅田さん寺本さんらは案の定ビールで一杯やっていて上機嫌。小屋に入ると松井さんがすでに寝ている。私もすこしベットに横になった。今日は本当に良く歩いたものだ。時間にして16時間にもなる。今までこれほど山で歩いた経験はない。実に良く頑張ったもんだと自分の足をほめてやった。この5月の連休中に乗鞍岳山頂からの下りで両方の足に肉離れのような痛みが走り、足を曲げられなくなり何度も休み休み下った辛い思いがあり今回の山行きでそれが出ないか実は一番気にしていたのであるが、ここに着くまでそれらしい痛みにも襲われず無事に着けたことが何よりもうれしかった。今夜一晩休めたら明日はもう大丈夫だ。夕食は6時半なのでそれまで一眠りすることにした。
  夕食時間だとトーマスに起こされた。みんな寝ていたようだ。浅田さんは食事なしでこのまま寝ていたいという。末永さんはまだ調子は良くないが食べに行くつもり。問題は松井さんだった。体調がまだ良くないので彼も寝ていたいと言う。二人を置いて食堂に行くと山崎さんと会う。彼とはあれ以来だったので「どうだった?」と聞くと、キルマンズポイントまでは登ったがあとは体調や良くなく先にトーマスに連れられて下ったようだ。結局登頂に成功したのは私と浅田さんそれに寺本さんの3名。あとの若い者3名が断念。若さや元気さだけでは高山病には勝てないものなんだと思った。
  夕食を済ませてとにかく眠ろうと思った。トーマスが明日の予定を伝えにきた。松井さんについては、明日本人をこのハットからポーターの助けでもう少し行った所まで下ろし、そこからレスキュー隊の車で下ろすといってきた。登るときに車のわだちを見つけて不思議に思っていたなぞが解けた。私は明日の朝本人の調子を確かめて最終決定をしたいと返答した。そのあと、彼が少し擦り寄ってくるような態度で話し出した。それは明日でこの山行きが終わり、マラングゲートの所で全てが終わったあとガイドヤポーター達にチップを渡すことになるのだが、どうやらそのことである。当初旅行会社の方から聞いていたのは、ポーターが各2名づつで12名、これはコックも兼ねる。それにガイドが1名の13名だった。しかし出発の時にサブガイドが2名とコックが更に2名ついている事を伝えてきた。他の仲間にそれを言うと、「聞いている話と違うなあ。」ともらしていた。その時は、「今ここでその事で相手と議論しても仕方がない。大切なことはみんなが登頂に成功することだ。それが優先される。登ってからのことにしよう」と話し合っていたのでたぶんトーマスはそのつもりでここまで来たのだと思う。私は彼にツーリストから聞いている相場を教えた。ポーターは一人25$、ガイドは50$。コックとサブガイドは聞いていないのでまあ言えば「コックは25$、サブはチーフより少ない40$ぐらいだ。」と言ってやった。彼は、「うん、うん」と言う感じで聞いていたが自分のチップの額になると少し顔つきが変わってきた。更に寄ってきて、"More" と言いだした。いくら欲しいのかと聞くと、「70$」と言ってきた。私は「自分では決められない、みんなで相談して決める。」と返事をしておいた。彼は祈るように「よろしく」と言っていた。

7. 8月15日(土)
  
何時間か睡眠が取れたあと目が覚めてヘッドランプで時計を見ると11時前。起きてみた、意外や頭がスッキリしている、体調もすこぶる良し。寝ている間に自分の体に高度順応が出来たのだ。とてもうれしい。「これなら頂上までいけるぞ!」と一人で喜んでいた。、今日は冬山装備になるぞと思いながら荷物をザックに入れた。頂上は太陽が出れば暖かいだろうがマイナス20度以下になることは間違いない。
  朝食にビスケットと チャイ が出たが、あまり食べて気分が悪くなるのを恐れて暖かい tea を一杯だけ飲んだ。3枚のビスケットはポケットに入れておくことにした。朝から何も食べなくても頂上までの体力は何とかなるだろうし、途中食欲が出ればビスケットを食べればよい、と意外と楽観的になっていた。私の出発の準備はOKだ。同室の日本人以外の一つのパーティーはもうすでに出発していた。
  さて、問題は昨夜高山病にかかっていた松井さんのことだ。やはり朝食は食べられない。でも本人はいってみるという。4日前に知り合ったばかりなのであまり強く踏み込んでの意見は言えない。アドバイスとして「無理しないほうが良い。」としか言えなかった。もう一人の末永さんはここに残ると決めているようだ。賢明な決断だと思った。トーマスも松井さんには「ここに残ってみんなの帰りを待てばよい。」と言い、かなり心配している。私はこれは特に通訳しなかった。トーマスの身振りと顔の表情から判断して彼には理解できたと思ったから。
ガイドにとっても、もしこれ以上登らせて更に高山病が悪化して命にかかわるようなことにでもなれば責任問題に発展するだろから彼には登頂を断念させたかったと思う。あとの4名は登ることが決まり、ガイドはサブの ピーターとダスティンに任せるとトーマスが申し入れてきた。4名で少し考えたが、4名のうち誰かが途中で引き返すことになれば1名のガイドが必要。残りの者で頂上をアタックすれば先頭としんがりにガイドについてもらわねばならない。やはりチーフのトーマスも含めて3名のガイドについてきて欲しい旨を伝える。トーマスも了解してくれた。残留組の二人についてはポーター達にみていてもらえばよいということになった。
  出発しようと部屋を出がけにポーランドの親子に「Good Luck!]と励まされ、私も、「山頂で会おう!」といって部屋を出た。外でガイドたちと喋っていると、なんと松井さんが出てきたではないか。しかし足取りはフラフラである。ヤッケの前も開けたまま。何か意識がしっかりしていない様子。これを見て、浅田さんがすかさず、「そんなに足がふらついていては駄目だ。登ったらあかん、ここで待て!」とやや命令口調で彼に言った。それを聞いて私も、「そうだ、止めとき!」と言い、寺本さんも同じ事を口走った。松井さんは我々のこのアドバイスに素直に従ってくれたので、少々気の毒に思えたが一方では何か「ホッ」とした。後で聞いた話だがキボハットに来るまでにも足がかなりふらつき、言葉もしっかりしていなく、ろれつが回らなくなったりして周りのものを心配させていたらしい。高山病と言うのは人間の意識までも駄目にしてしまうものなのかと怖くなった。
  12:30 深夜ヘッドランプを頼りに登り始める。これからが正念場だ。きつい登りが待っている。外気温は相当低い。ここからは一歩一歩登るごとに自分にとっては未知なる高度への CHALLENGE なのだ。モンブランに登った時よりも一枚多く身に着けた。手袋はまだいけると思い軍手にした。20,30分も登れば体が暑くなり汗も出てこようと期待していたが、なにせ空気の薄いところ本当に一歩一歩ゆっくりしか進めない。なかなか体が温まらない。それ以前に両手が冷えてきた。やはり軍手では駄目だったと後悔する。次の小休止でスキー手袋に替えようと思い両手をウインドブレーカーのポケットに突っ込んで登る。これで少し冷たさがましになった。登山道はガレ場と砂地。片足を上に一歩とって登はんしようと踏み込んでみると、「ザザー!」とまたもとの位置に戻ってしまう。そんな事が何回もあり苦戦する。足場がしっかりして同じペースで登れば調子がつくのだが、このように滑り出すと調子が狂い余分の力が必要になり体力を消耗する。すると息が苦しくなる。こんなはずじゃなかったのにと思う。今までの山登りと違う、息が止まりそうになる。昨日美しい姿をしていた山の登りきった地点ギルマンズポイントまではこんな苦しさが6時間持続くことになる。「なんとしてでも踏ん張るぞー!」と強い決意を自分に言い聞かせながら一歩一歩足を進めていった。例によって私はしんがり。先頭は寺本さん、浅田さん、次は山崎さんという順番だ。上を見るとヘッドランプの明かりが高いところでキラキラと光っている。登山道を示している。すぐ近くに7,8人のパーティーが私たちの先を登っている。 とてもゆっくりポレポレだ。でも我がパーティーはこのスピードではすぐに追いついてしまう。まさか追い抜くつもりはないだろうなあと心配する。モンブランでの追い抜きの辛かったことをまたしても思い出してしまった。あの時はガイドと私と二人だったので何度も前のパーティーを追い抜いた。その度に道を右や左に大きくそれてしかも少し早く登らなければならなかった。一回追い抜くたびに呼吸が苦しくなりずいぶんと疲れを感じた。あのときのつらさが脳裏にはっきりと甦ってきた。そしてそれはまたしても現実となって私を襲った。前のパーティーを追い抜くために大きくそれているではないか。私は一瞬「このままこのパーティーの後ろからポレポレでついて行こうか?」と判断に迷った。それ程辛かったのだろう。しかし体は、足は、私の意識とは無関係に追い抜く方向に向かっていた。もはや頑張るしかない。追い抜いたあとで先頭の浅田さんが小休止を取らないかなあ、と期待した。時計を見ると休んでからもう30分以上も登っている。そんなことを考えながら進んでいると急に止まった。どうやら休憩のようだ。「やれやれ!」と思い私も適当な場所を見つけ座り込む。そして呼吸を整える。じっと休んでいると急激に体温が下がってきて寒くなった。これはいかん、動いた方が良さそうだと思いまた登りだす。休みながらでもゆっくり登っていけばいずれ頂上に着くのだと自分に言い聞かせていた。
  登っては休み、登っては休みを繰り返しながら半分ぐらい登ったところで、山崎さんの様子がおかしくなってきた。彼が遅れだしたのだ。トーマスが彼についている。私たちはマイペースで登り続けた。すると今度は浅田さんが、「もうあかん!」と言いだした。「自分は一度この山に登頂している、こんなにしんどいんやったらもうええ!」と弱音を吐き出した。体調も良くないのだろうと想像するが、同調したら彼も腰砕けになってしまうだろうと思い、「ここまで来たんやから、あとは登るしかないがな。ポレポレで行こう!」と励ます。本人も納得し登りだす。
  しばらく登っていると雪や氷が周りに見え出した。下から見ているとこの山は頂上付近が雪で覆われているので、どうやらギルマンズポイント地点に近づいているはずだと嬉しくなる。上を見るとどうやらもう少しで登り切るようだ。雪や氷の上を登っていると上のほうで人の話し声が聞こえる。 やっとギルマンズポイント5685mに着いた。「よう頑張った!」3人が無事たどり着いていた。山崎さんのことはわからない。狭い岩場の上で少し休む。登ってきた反対側はあたり一面雪の世界。時間は朝の6時過ぎだ。夜が少しづつ明け始めてきた。下からのご来光である。周りが次第に明るくなってきた。なんと美しい夜明けだろう。「こんな高い山の上で夜明けを眺めるのは自分の一生でこれが最初で最後になるだろうなあ!」と感慨深く眺めていた。でも本当にきれいだ。神秘的としか言いようがない。自然が演じる最高のショーである。幸せな気分に浸っていたのもつかの間ガイドに促されてウフルピーク目指して出発することになった。ここまで登ればあとはそんなにきつくない、200mばかりの登りだ。ここから頂上往復は3時間かかるらしい。
  道は少し下ったり、登ったりの連続で今までと比べるととても楽だ。少し行くと頂上までの全ルートが見えてきた。右に大きく山の稜線が曲がっていて、どうやらその先の一番高いところが山頂の UHURU PEAK の様だ。頂上に近づくと登りになってきた。左側は谷で右側は広い大雪原。太陽が出てからは暖かい。手と足の指先は相変わらず冷えていて痛い、が歩いていても気持ちが良い。モンブランのときは手袋が薄く、寒さで手が硬直しガイドから厚手の手袋を貸してもらったけれど凍傷寸前になり、帰ってからも親指の痺れが長い間取れなかった事を思い出した。
  頂上らしきものが目前に見えてきた。今のこのペースでゆっくり休まないで行ってやろう、と心に決めた。前を行く寺本さんが休憩を取った。私は今の決心を実行するために彼の横をゆっくりと通過した。「今調子が出ているのでこのまま行きます。」と彼に声をかける。このパーティーの中で一番先に頂上に到着してやろういう野望が出てきた。するとおかしなもので野心が心を熱くして extra energy を与えてくれているようで踏み出す足が軽くなってきたようだ。後ろでピーターが「休まないで大丈夫かよ?」と思っているだろうなと思いながら更に進んだ。頂上のようなものが目前に迫ってきた。「あれが頂上だな」とはやる気持ちを抑えて進む。体は小休止を要求しているようだ。最後に休んでからかなり登り続けている。「あとひと張りだ!」 そこに近づくと更にまだ向こうに道が続いているではないか。かなり先に人が何人か立っている所が見えた。「あー、あれが頂上だ、又騙された。」と思う。山に登っていて頂上近くになるとどうしても手前にある高いところが頂上だと思い込んでしまうのだ。そんなことを2,3度騙されながら峰を越してやっとのことで頂上にたどり着いた。「あと2m、あと1m、もうこれで終わりだ。」「やった!とうとう着いた!」朝の8時ちょうど。「ウフル ピーク 5895m。アフリカ大陸の最高峰、Mt. Kilimanjaro の頂点に立ったのだ!」 うれしい、とにかくうれしい。体調はすこぶる良し。疲れがあるだけだ。最後までついて来てくれたピーターと握手を交わし、彼に感謝の言葉を述べた。"Thanks to your help, I am now on the top of Mt. Kilimanjaro." 彼も喜んでくれた。周りの景色を見ていると、じわっと感動が起こってきた。体の中が熱くなったようだ。人生で最高の時を迎えているようだった。そうこうしているうちに寺本さんと浅田さんが頂上までやって来た。3人で握手をしお互いの健闘を讃え合った。ダスティンもやってきてみんなで抱きあった。「よくやった、よくやった!」と。
  山頂からはもちろん360度の展望があるが、前は大きな棚形の氷河が横たわり、後ろ側には大雪原、登ってきた方向から下にはもう雲海が出ていた。今年は特に雪が多いらしい。例年であればここには「ウルフピーク5895m」という標識があるのだが、今年は雪でそれが埋まっているということだ。残念ながらそれをバックに記念写真を撮ることができなかった。下る時間が近づいてきたので何枚かの写真をとって下山の用意をする。さあ、あとは下りがあるのみだ。ガイドに促されて頂上をあとにした。

5. 8月13日(木)
  朝6時前に目が覚めトイレに行く。通じも良い。山に入り便通があったのでひと安心だ。トイレは水洗で水道もちゃんとついている。山の水がまだまだ豊富にあるようだ。7時の朝食はスープ。おかゆのようだがおかゆでなく、米と何かを煮立てたもの。塩を振りかけて食べてみるがそんなに美味しいものではない。パン、ジャム、バタ−とメインはオムレツ、ベーコン炒め、トマト、キュウリの輪切り、これはいける。そして果物(すいか、オレンジ等)、チャイ と ミロ用の hot water 。朝食も美味しかった。私自身の体調もすこぶる良く今日はホロンボハットまでやく約10キロ、4,5時間の行程だ。
  予定通り8時に出発。標高3000m越すあたりからジャングルを抜け出し草原帯に入り目の前が大きく開けた。一つの稜線を越すと眼前にキリマンジャロが見えた。「おっ!」と一声が出た。アフリカへ来てはじめて見るキリマンジャロだ。頂上に雪をかぶって静かに私を眺めているようだ。山を見て感動を覚えた。しかしまだまだ遥かに遠い。ガスも無くさんさんと降り注ぐアフリカの太陽の下、3000m以上なのに結構暑い。半袖で十分だった。歩いていても気持ちが良い、そしてとにかく広い。目の前といわず360度大草原が広がっている。1時間歩いていても景色は変わらない。何と言う広大さなのだ。この山キリマンジャロは昨日今日と15キロ程度歩いてもまだアプローチは終わらない。ここは標高3000m以上にある大草原なのだ。
  中間地点あたりで昼食をとる。ランチはサンドィッチ2種類とゆで卵1個、小さいバナナ1本、オレンジ1個、生ニンジン1個。みんな食べた。遠くにキリマンジャロを眺めながらの食事、こんな贅沢は無い。この後も気分よく歩き続け1時過ぎにホロンボハットに着く。終わりごろに少し登りがあったが、1日で約1000m登ることになるので勾配はそれ程きつくない。登るというよりは歩くといった感じだ。ホロンボハットも三角屋根の小屋と大きいダイニングハウスが真ん中にある。標高は3720m。ほぼ日本の富士山の頂上ぐらいだ。
  小屋に入り横になって休憩していると、ジワーと冷えてきた。油断は出来ない、風邪でも引いたら大変だ。疲れはあるが体調は良い方だ。心配している高山病のようなものはまだ何も感じない。小屋の前に出てみたらリス達がチョロチョロ現れて私を歓迎してくれているようだった。
  5時に夕食と済ませ、十分に休養をとるために早々と寝袋に入る。明日は更に1000m登り4000mを越すことになる。明日も7時朝食、8時出発である。

4. 8月12日(水)
  今日はいよいよ登山開始だ。どれ程この日を待っていたか。日本を出て4日目、それまでは飛行機に乗ったりしてただ与えられた食事を食べているだけで、運動らしい事は何一つしていない。体がなまってきてはいないかと心配する。とにかく早く歩きたい。そんな気持ちで一杯だった。
  朝迎えの車が来るのが遅く小1時間ほど待たされた。ホテルからマランゲートまでは30分程度、マラング村を通ってゲートに到着。ポーターに荷物を預け登山届けを書く。ポーターが寝袋、防寒具やコンロなどが入った重いザックを持ってくれ自分はサブザックで行けるので楽な気分。今日はここからマンダラハット(2700m)まで約5キロ、3,4時間の道のりだ。手続きや、ポーターたちのお互いの荷物分担やらで時間がかかり出発したのは11時ごろだった。パーティは我々登山者6名とチーフガイドのThomas(トーマス35歳)、サブガイドのPeter(ピーター32歳)とDusten(ダスティン26歳)、それにポーターが12名。一人の登山者に対して2名のポーターがついた。荷物運びとコックである。更に2名のコックが追加されていた。
  歩き出してすぐマサイステップと呼ばれるコーヒーやザイル麻になる木が茂っている樹林地帯を抜け、次はジャングルに入っていった。時々サルの鳴き声が聞こえた。道は車が一台程度通れるくらいでわだちのあとが残っていて、何でこんな所に車の跡がと思っていた。登りもそんなに急なものでもない。上から登山を終えた人達に出会った。ガイドやポーターに出会うとみんな、"Jambo!"といって挨拶をしてくれる。中には、「ガンバロー!」などと日本語で声をかけるアフリカ人もいた。上からの登山者はみんな良い顔をしていたのできっと登頂に成功したのだろう。「上はどうでしたか?」と尋ねると、「天気はよかったけど、とても寒いですよ。」などと言ってくれた。「よし、絶対に頂上まで行ってやるぞ!」と自分の心に強く言い込めた。私のパーティーの者はみんな元気よくペースも速い。私は「Pole,pole.」(ゆっくり、ゆっくい)のマイペースで行こうと思いたいていしんがりで女性の末永さんのあとだった。最後尾のものにはPeter かDustenが必ずついていてくれていたので安心してゆっくりと登れた。ガイド達もよく[Pole,pole.」(ポレ、ポレ・スワヒリ語でゆっくりの意味)と声をかけてくれる。
  ジャングルの中ではもし一人で歩いておれば心細くなり不安に駆られるような雰囲気で、映画のジュラシックパークのように思えた。大きな樹木からは青いとろろ昆布のようなものが枝に引っ付いていてなんともいえない様子を呈しているのだ。歩くこと3時間あまりで今日の山小屋マンダラハットに着いた。標高2700mだ。日本で言えば白山程度の高さ。小屋は4人部屋2つ続きの三角形の小さな家で、あちこちに20棟程度あり、その真ん中に大きなこれも三角形のDining House がある。それにガイドやポーターたちの小屋があり、コックはそこで食事の準備をすることになるj。1日目の登りとしてはちょうどよい足のトレーニングになった。疲れは無く爽やかな気分だ。ガスが出ていてあたり一面薄いガスの中だった。明日は晴れてくれればと願う。ガイドによれば上に上がれば必ず晴れているとの事。自信を持って言うので信じてはいるがどうしてそんなに確信が持てるのだろうかとふと疑問に感じたりもした。
  5時に夕食。何が出るか楽しみだった。まずスープ、肉汁のようなもの。まあまあいける。次はお好み焼きのようなものが出てきた。キャベツの無いもので粉を焼いた食べ物。そして メインディシュはスパゲティ、ビーフシチューと小さいジャガイモのゆでた物。肉は硬かったが、シチューはなかなか美味しい。最後にフルーツ。マンゴ、アボガド、ココナッツ、そしてスイカがついていた。みかんもあったな。果物はどれも美味しかった。飲み物は必ず チャイ(tea) と hot water があり、お湯はミロを作って飲むのである。このミロはナイロビのスーパーで見かけたのと同じで日本にでもある物だ。とにかくすごい食事だった。こんな山の中でまるでフルコースのような料理が出てくるとは思いもよらなかった。本当に有難いと思っていただいた。みんなでビールで乾杯。全員いたって元気である。明日は7時朝食、8時出発。夜は早めに寝る。

3. 8月11日(火)
  8:50 ホテルよりマイクロバスでタンザニアのアりューシャという町に向けて出発する。たまたま私の隣にアフリカ人が座り同じところまで行くとわかり話し相手になる。とにかくアフリカは広い。見渡す限り地平線が続いているようだ、そしてサバンナの中を道路がまっすぐに伸びている。時々動物が道路を歩いている。多くは牛、突然らくだが5,6頭現れてびっくりした。何時間もほぼ同じ景色の中を車は猛スピードで突っ走る。ぼろぼろの車でこんなにスピードを出して大丈夫かと心配になるくらいだ。昼過ぎにケニヤとタンザニアの国境に着いた。アフリカでの初めての国境越えだ。バスを降りてアフリカ人の後に続く。問題なく入国できた。土産物屋がたくさんあり売りに来る。私は帰りには何か買って帰ろうと思っていたので冷やかすだけだった。"Money change!" とやって来た。国境ではレートが高いので止めといたほうがよいと教えられてので、これも手を出さなかった。赤い布を身にまとったマサイ族の青年がいたので声をかけてみた。"Do you speak English?" どうも通じないようだった。首輪、手の輪など実にいろいろな装飾品を身に着けている。国境なので写真が撮れないのが残念だった。
   アリューシャの町に着いたのが3時過ぎ。遅い昼を済ませタンザニアシリングに替える事にした。お金をもらったがレシートも何もくれなかったので、要求すると何か書いていたが金をもう一度返せという。渡すと、500シリング数枚取られたので、理由を聞くと、渡しすぎだと答えた。レシートを見ると1$が630Tsh(タンザニアシリング)で、ドル紙幣で交換したので数えてみるとその通りだった。レシートを要求しなかったら知らないうちに少し儲かっていたのにと思い何か損をしたような感じだった。人間て可笑しな者だ。それにしても相手もいい加減なものだ。お金を替えたときは必ず確かめないといけないという教訓を学んだようだ。これから先まだまだ色々ろあるぞと覚悟を決める。
  車で走っていると時々道路を人が歩いている。あたりを見渡しても家らしきものは無い。たぶん隣村まで行くのであろう。とにかくアフリカ人はひたすらよく歩く。それも2,3キロ単位ではない。猛スピードの車で随分走ってやっと次の村が見えてくるという具合である。
  5時前に今日の宿泊地、モシという町のキボホテルに着く。標高1550m、涼しい。アフリカは暑いものだという先入観があっただけにこの爽やかさは本当に心地よかった。ナイロビでもそうだったが朝はとても寒い。バスの中の私の隣のアフリカ人は長袖のシャツの上に更にセーターを着ていた、その横に私は半袖のポロ。妙な取り合わせであった。ナイロビから国境まで150キロ強、更にそこからアリュシャーまでまた150キロ程度あり、とにかく1日中バスに揺られているようだった。
 部屋に荷物を置いて近くに散歩に出かけた。中学生らしい女子生徒が制服を着て通りかかった。とても可愛い。彼女らから、"Jambo!" と言ってきた。私も、"Jambo, Are you a student?" と聞いてみたら"Yes." と返事をくれた。このように、道で出会った人はよく"Jambo!" と挨拶をしてくれる。みんな人懐っこいのだ。(Jambo・ジャンボ. はスワヒリ語で「こんにちは」の意味)

2. 8月10日(月)
  朝6時のバスで再びあの空港へ。手続きを済ませて機内に入る。10:30発、ナイロビ行きAI201便。6時間のフライトで予定通りにナイロビに到着。現地時間13:50。時差は6時間。後で聞いたのだが空からキリマンジャロが美しく見えていたらしい。中間席に座っていて気がつかなかった。とても残念な気持ちになった。空港での様子だが特に物々しいようには思えない。ただ自分の気持ちとしては、「ついにはるばるアフリカまでやってきたのだ。」と多少感慨深げだった。空港からバスでナイロビ市内へ向かう。市内に入った、途端に渋滞して車が動かない。アメリカ大使館の近くまでやってきた。窓から爆破された建物がよく見えている。車内に緊張感が高まる。やがてバスはホテルに着き、登山の世話をしてくれる現地係員に会いこれからのことについて色々と説明を受けた。機内などで知り合った私を含めて6名でパーティを組むことになった。うち4名が同じグループ(うち1名が女性)であと私ともう一人が東京から来ていた。お互いに簡単に自己紹介をし2時間後にロビーで待ち合わせて夕食に出ようと約束をする。  自分の部屋に入りシャワーを浴びてくつろぐ。まず自宅に国際電話をし無事に着いたことを妻に知らせた。途中での出来事などいろいろ話したいことがあったが、電話代も気になりすぐに切る。1200円だった。
  2時間後ロビーでみんなと会い町へ出かける。外に出てアフリカの感触を味わう。空気がカラットしていてとても爽やか。周りを見渡してもアフリカ人ばかりで、「アフリカに来ているんだ!」と実感した。近くのスーパーまで15分ほど歩きミネラルウオータなど明日からの必需品を買った。食事は日本料理店に入り、明日からの健闘を祈りみんなで乾杯する。あとはホテルに帰り、久しぶりにゆっくりと寝た。

  税関はずいぶん込んでいて長時間待って通過できた。しかし、親しくなった内の一人の男性が税関で止められている。彼の仲間の女性に頼まれて私が事情を聞きに行った。係員は「問題ない、再チェックをしているのだ」と言う。待っているが一向に進展しない。本人が別のカウンターに連れて行かれて再度事情を聞かれだしたが言葉がわからないく困っている様子。再度私が中に入る。係官がカウンターのコンピュターを見よといった。覗き込んでみてみると、"This person is in suspect in the index 1991 and can not be allowed to enter India, and so on...." などと本人の照会文が出ている。本人に確かめてみると、もちろんそんなことはあり得ない。「大阪のインドの領事館でビザを取っているのだから、これは何かの間違いだ。早く通してくれ、ホテル行きのバスが待っているのだ。」と嘆願してみるが、係官は首を横に振るだけ。そうこうしているうちに、2,3人の係官?らしい人物が集まってきた。どうも周りの様子がおかしい、税関のほかの窓口にはもう誰もいない。我々だけであった。賄賂を要求しているようだと感じた。係官が小さな声でこう言ってきた、"I can help him." ”How?”と聞き返すと黙ってしまう。それ以上は何も言わない。"How much?"と言ってみた。すると、"50 $" と返ってきた。わざと"fifteen?" と確かめると、"twenty five" と返ってきた。このやり取りを本人に伝えたが、どうしようかと悩んでいる様子。私が、「警察に連絡してくれ、そして事実かどうか確かめてくれ。」と何度も繰り返し言うと、別の仲間が連絡を取っている様子。まもなくして責任者らしい人物がやって来て、本人に色々質問をしたが最後には入国を認めた。待つこと1時間以上みんなくたびれた。助けに入った私は「これ本当にどうなるのか?」と自分のことのように心配した。入国できてよかった。どうやら小遣い稼ぎに適当な人物を選んで用意しておいた文面をパソコンに出して、さも本当のようにあらぬ事を捏造していたのだと思う。油断の出来ない国だと思った。 バスに乗ってホテルに着いたのは朝の3時を回っていた。シャワーをかかり仮眠をするが神経が立って寝られない。明日の朝6時のバスでホテル出発なので起きられるかと気になり余計に寝つかれなかった。 

関空14:00発AIR INDIA319に乗り込む。
  5:30 香港着。ここでtransit だが機内待機となり外へ出られない。エアコンが止まっていて機内で暑さに耐えながら2時間待たされる。これは本当につらかった、二度とAIのこのコースに乗るものかと思った。機内で近くの席に座っている人達と話しているとその人達もキリマンジャロ登山に行くようだった。私は一人参加だったがひょっとしたらこの人達とパーティを組むのかなと思っていた。
  7:35 香港発。やっと飛び立ち空に舞い上がると機内は涼しくなってきた。またまた同じ料理が出た。人間ブロイラーになった感じだ。4時間20分でインドのデリーに着く。11:55(現地時8:25)再び機内待機。仕方がない。次第に汗が流れ出す。2時間後の10:10発。日本時間では深夜の1時過ぎ、もうすでに寝ているはずだ。デリーとは3時間半の時差。30分の半端があるのはおかしいようだ。23:50ムンバイ(ボンベイ)に着く。やっとのことでこの狭い機内から出られてほっとする。が、外は大雨、機外に出たとたん雨に見舞われた。タラップで地上に降りてバスまで走るのであった。これがインドの空港なのだと自分に言い聞かせる。

50代の山へ

最後までお付き合いいただきありがとうございます。この手記がキリマンジャロ登山を考えている人にとって何らかの参考になれば幸いです。

8. 8月16日(日)
  次の朝、とても気持ちよく迎えることが出来た。階段を下りるときは足が痛いけれど体調はとても良い。朝食を終えて松井さんの様子を聞いてみるが、特に変化はないという。彼については昨夜トーマスが言っていたようにする事にした。彼はポーターに抱きかかえられるようにして下っていった。私たちもすぐに後に続いた。今日は最後の下りで約15キロある。最後だ、頑張らなきゃならない。マラングゲートに意気揚々と着きたいなあと願いながら出発した。少し下って休んでいると、あのポーランドの親子が我々を抜きかけた。頂上までお互いに行けたことを確認し、共に喜び合う。住所や電話番号などを交換し将来の再会を誓う。私もポーランドは是非とも訪れたい国で二人が住んでいるワルシャワも良いとこらしいので。私は相変わらずマイペースで、浅田さん末永さんは松井さんについているようで、寺本さん山崎さんは私の先を行っている。草原地帯からジャングルに入りマンダラハットに着く。今日は昼食は無しで下山してキボホテルでの昼食となっている。この調子ではとても昼ごろにはそこへいけない。浅田さんが例によって何か日本からの食べ物を用意してくれている。水で膨れるあべかわもちのようだ。なんて便利な好い物があるんだ。小さなもちで私も2つばかり頂いた。とても美味しい。トーマスがオレンジの差し入れをしてくれた。彼にもあべかわもちをあげていたが、口に入れたが出してしまった。口には合わないのだろう。
  少し休憩を取り、あとゲートまで5キロあまり。さあ出発だ。道はジャングルの中。松井さんにはこの先でレスキュー隊の車が迎えに来てくれているのでそこまでポーターに手を貸してもらって下ることになる。ポーターも良くここまで一緒に松井さんについて援助をしてくれた。二人は冗談を言ったりしてずいぶんと仲良くなったようだ。松井さんはお礼にセーターをあげるらしい。もちろんチップも特別に渡すつもりだ。トーマスによればレスキュー隊の車は無料だが運転手に5ドル程度の謝礼をお願いしたいといっていた。そのことも松井さんに伝えておいた。あと2時間程度の下りだ、私は先に出発した。
  私はマイペース。寺田さん山崎さんらはやはり速い。すぐに追い抜かれた。途中ポーランドの親子を私が追い抜いた所で、下からエンジンの音が聞こえてきた。どうやら我がパーティーの病人を運ぶ車のようだ。トヨタのランドクルーザーだ。とにかくアフリカでは日本車が幅を利かせている。それもトヨタや日産が圧倒的に多い。ポーランドの人も松井さんのことに気がついているようで、そのことを話しながら共に下ることにした。そうこうしているうちに上から先ほどの車が下りてきた。よく見ると病人のみならず浅田さん末永さんらが乗っているではないか。車が私のそばで止まり、私も乗れと言う。私は断固たる決意で断った。「無理せんでもいいのに。」と言われたが、私にその気がないのがわかると、ピーターとダスティンが降りてきて私と歩き出した。私はガイド達に「ゲートまでは一人で行けるので大丈夫だ、心配しなくて良いから乗っていけ。」と言ったが、ほっとけないのかして歩き出した。私はガイドにもポーランドの親子にも、「私のこのキリマンジャロの山行きももうすぐ終わる。もし今ここで車に乗ったら、全ては水の泡となる。最後まで自分の足でこの山行きを終えてこそ私の長年の夢が実現するのだ。そして誇りを持って日本に帰って家族や友人や、また生徒達にキリマンジャロの話しをしたいと思う。」と語った。聞いてくれていたみんなは、「その通りだ!」と同意を表してくれた。そしてポーランドの親子に先に行くと言って少しペースを上げた。道はジャングルを抜け出し広い歩きやすい道になった。時々サルが木移りしているのが見える。美しい鳥が見え飛ぶと尾っぽが白くなり印象的だった。
  とうとう、本当にとうとう終点に来た。ゲイトだ。どれ程この瞬間を待っていたか。私はやっとアフリカの最高峰・キリマンジャロ5895mという私にとって想像も出来なかった高い山を征服したのだ。体が熱くなるのを感じた。最後までついてくれていたピーターに感謝の握手をし、写真を撮った。彼も自分のことのように喜んでくれた。口数は少なく彼から話しかけてくる事はなかったけれど、やはりそばに居てくれるだけで安心だった。

  事務所の前の階段に座り残っている水を飲み干した。美味しい。「あー、これでもう歩かなくていいんだ、終わったんだ。」という安堵感が体中に湧いてきた。長かった5日間、特に後半の2日間はきつかった。事務所に入り台帳に名前、国籍、住所、パスポート番号などを記入してガイドのトーマスのサイン入りの登頂証明書(Certificate)をもらった。タンザニア国立公園長のサイン入りである。土産店で記念のTシャツとバンダナを買い、待っているガイド達のところへ行った。ガイドやポーターたちに集まってもらい、チップを渡すことになる。金額についてはみんなと相談しポーターの2人分50$、コック2人分50$、サブガイド2人分80$、チーフガイドは10$上乗せして60$とした。私が会計になってみんなからお金を集めて支払うことになった。この山行きでいろいろ世話になったり、美味しい食事を作ってくれたりしたガイドやポーターやコックさんに6人でお礼を言いながら手渡した。みんなは真新しいドル札を手にしてうれしそうだった。彼らにとって25〜60$というのはずいぶんなお金になるようだ。あと全員で記念写真を撮り、送ってやろうと思いトーマスとダスティンの住所を聞いておいた。名残惜しかったがみんなと別れて、迎えの車に乗りキボホテルへと向かう。そこで昼食を済ませ、今夜の宿アリューシャの町へ行った。