病気と病院、そして仕事
仕事や家庭の事がグルグルと頭の中を駆け巡っていた。


  病気と仕事     

 MS告知前に原因不明の高熱で合計2回入院しました。結果はいずれも『不明熱』という事でした。
Dr.は20数年前の発熱が直接この病気と関係あるかどうかは否定されていますが、告知前の
発熱に関しては、直後に身体的症状が現れてきた事から何らかの関係があるという見解を
されているようです。それ以前にも足首などが突然痛み、通院で様々な検査したのですが
結局不明のままでした。恐らく考えられるのは溶連菌に感染したのだろうという事でした。
      いずれにしても免疫的な疾患が在るかもしれない事を聞きました。

 MSと診断された身体的な異常は言葉から始まりました。言葉を発する時 ことば が出てこな
いのです。喋るつもりが口をモゴモゴさすばかりで、ことば にならなくなりました。会話をしてい
る相手はキョトンとした顔で不思議そうに見ているばかり、到底話題は繋ががっていきません。
病院では内科から精神神経科へ受診科が変わり、週1回のカウンセリングと抗うつ剤を飲んで
いましたが、病状は良い方向には向きませんでした。暫らくすると手が震え出し、文字を書こう
とすると全く書けない状態にまでなってしまい、この段階で仕事に支障をきたす様になってきま
した。「精神的なものが非常に影響している。」Dr.の診断結果でした。

その次に現れてきたのが排尿障害でした。尿意があるが排尿出来ない。この症状は大変つら
いものがありました。通院は精神神経科、内科は週1回、泌尿器科は2週間に1回のペースで
数ヶ月続けましたが、各症状は良くならない状態が続きました。

 昭和61年から独立独歩で会社を設立し、当時には社員、準社員合わせてで10人にまで増え
ており、一向に良くならない体調、そのような状況であっても後戻り出来ない会社の実情。
朝5時に起きて会社に出勤し、社員達への確認項目などデスクワーク・その後営業・現場廻り、
そして病院、帰社してデスクワーク・・・しかし、出来ていた事が少しずつ出来なくなってきたり、
お客様の会社への信用が落ちてきている・・そういう肌に感じる現実、それでも社員達、家族
の事を考えると継続しなければいけない実情を突き付けられて、日増しに孤独感までも感じる
様になってきました。将来の事を考えたくないから、体調が最悪でも・・一人で繁華街を飲み歩く
日々が続きました。その時間だけでも考えなくても良いから、、。当然、病院での血液検査には表
れてきます。『これではいけない!何とかしなければ。』気持ちを奮い立てるのですが、一歩進
んでは二歩下がる。繰り返しでした。
病院での診察も、原因が特定できない状況・・自分がダラダラと毎日毎日、確実に一歩一歩
下がっていくのが分かりました。どうしようもない状態でした。

 ある晩一睡も出来ませんでした。夜が明けていくのを感じながら、『自分はもう必要じゃないの
かもしれない。いや そうなんだ!』、、、、、そういう精神状態の日々が続きました。
そんな折、現場での怪我で 神経、腱を切断し14針縫ってしまうような事になってしまいました。
悪い事は重なります・・・しかし、3日で病院を出て次の日から闘いの再スタートを切りました。

自分の不注意で受診科が1つ増え、合計4つの受診になり、手のリハビリも受けながら無我夢中
で働きました。社員達も頑張ってくれました。ある日、少し両足先の痺れを感じるようになり
『おかしいな・一体なんだろう?』その程度にしか思っていませんでした。しかしその痺れは徐々
に上方に昇り、腹部にまで達してしまうのには一ヶ月もかかりませんでした。同時に痺れが硬直
をも伴う様になってしまった為、整形の受診時に診察を受け、胸椎MRIの結果、整形外科的な
異常は見当たらないとの診断を受けました。『恐らく神経的な障害と思うので神経内科を受診
しなさい。』との Dr.進言で、ここで・・初めて神経内科を受診した訳です。
平成10年2月の事でした。

 神経内科では翌月に胸椎MRI造影検査を、まずしました。その結果・・異常無し。一体自分の
病気は何んだろうか?神経内科のDr.も分からない状態が約半年続きました。身体はもう、、ボロ
ボロになっていました。
しかし、上肢の支障が何故か?治まって来たので『こうなったら動くところを鍛える意外無い。』と、
自分で判断し、鍛え始めました。仕事柄、危険な場所でつまずいて転倒したりすると命取りに
なってしまいますので、所謂リハビリとかそういう形では無くて、本格的に・・鍛える・・という意味で
やり続けていました。足場の上でつまづき落下しそうになっても、両手さえ使えればどうにか
なるだろう。そういう考えでした。その間も会社存続ばかり考えており、一時の精神的な問題も
どこかに吹き飛んでしまっている状態になっていました。しかし下肢の麻痺は依然変わらず、
増悪してきているのが自分で感じながら、『病院でも分からないなら、自分でやるしかない。』
そのような気持で、無我夢中で上肢の鍛錬を続けておりました。

診察時はそういう事を隠していたのですが、ある日、「これ以上は入院して、徹底的に検査する
必要があります。」Dr.からの半強制的な言葉を受けて入院し、そして各種検査の結果MSの告知
になりました。すぐにステロイドパルス治療が始まり、10日後に退院しました。
もう、無理やりに自分で決めて退院してしまったのです。それ以上入院する事は会社の状況を
考えると明らかに無理で、通院する事を条件に、とにかく病院は出たのですが、それからが
本当の闘いが始まるのを当時は、まだ実感として感じないまま、それまで以上に仕事に没頭して
いきました。


長くなります。もしお宜しければ。

その後
       

 早朝からの仕事と週1回の通院、プレドニンの服用を続けて1年が過ぎました。
プレドニンは半年目で身体中に湿疹が出た為に服用は止めていました。上肢の鍛錬は継続
していましたが、下半身は全く改善しません。仕事で足場から落ちる寸前に数回もなりながら、
表面上は何も支障が無いかのように努めていました。

 ある日の受診で『先生、この症状は今後もう治らないのですか?』すると主治医は『神経の損
傷の後遺症なので、難しいですね、。』の言葉でした。治療は湿布を貼る程度しか、していませ
んでした。そうならば通院しても意味が無いのでは?平成11年の年末でした。そのように思う
ようになり、それ以降2年間は病院にも行かなくなってしまいました。2日仕事は出来ても3日目
は寝こむ。そんな日々が続いてましたが、病院に行こうとは思いませんでした。

 平成13年が明けて間もない頃、仕事の無理がたたり歩行が難しくなってきました。
なんとか病院に行きMRIを撮りましたが、異常は見当たらないとの事でした。
再発はしていないという事です。やはり後遺症であるので耐えなければいけないという結論です
、、。社員達はどうするか?それまでの私の仕事への対応方法は、勿論現場ごとに担当者を
決めるのですが、やはり良い物を造るためには(それが信用になり継続してこれた。)
自分が目を光らさなければ、色々問題が発生してしまうのです。
この方針が社員達の独立心に影響を与えたようで、全く会社として機能しなくなりつつあるのが
数字的にも分かるようになってきました。『会社を解散すべきか?』
『このままでは倒産だ。』『すぐ解散しなければ最悪な結果だ。』しかし『社員達はどうする?』
『自分の生計はどうする?』高校2年の長男以下3人子供の事は?毎日毎日眠る事も
出来ません。このままどうなるんだろう?人事のように、ドラマのように考えるようになってきま
した。1年がまた過ぎました。気持ちも身体も表面に出していないけれどボロボロの状態でした。

 そして又年が明けました。ある一睡も出来なかった日の朝『これまでの自分の人生を考えて
みよう。』そんな単純な考えが浮かびました。それまでは今後の事、現状の事ばかり考えていた
のでしたが、何故か急にそう考えるようになってきました。小学生の頃・中学生になった時・高校
時代に遊んだ事・大学の生活・社会人になってから今日まで・ずーっと考えてくると、、、泣かし
た人、泣かされた人、騙された人、結果的に騙したようになった商売相手、様々な出来事など、
自分が、これまで歩んできた『結果』が現在である。と、単純明解に割り切れるようになってきた
のです。決断しました。会社は解散・社員は退社してもらう・・それしか道は無い!

サラリーマンから独立した時は何一つありませんでした。ままごとのような会社でも20年間の幕を
下ろすのは、自分のこれまでの人生を否定されるような気持ちもありましたが、逆に第2の人生の
スタートラインが引かれた気持ちにもなれました。机、いす、製図機器、工具、トラック、等など
思い出が無い物は何もありません。買った時々の記憶がよみがえってきます。
全ての物を整理し、ポツーンと事務所に居ると涙が出て仕方がありませんでした。
こういう形で終る事しか道が無いのは理解しているのに、、。会社は続けたかったと。



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