備中上野氏は、足利将軍家一族上野民部大輔信孝が備中を領することに始まります。

 上野民部大輔信孝は、永正六年(1509)、足利第十代将軍義稙の命を受けて備中へ赴き、当時、備中の主要な城であった下道郡の鬼邑山城に入りました。

 備中兵乱記には「永正六年六月源義稙、天下の国主を召され、年来の軍忠を揚げられ忠賞を行われる、累年の軍労を休息致され、向後は国主にすえ置かれ、国主の仕置を探題し、地頭の行跡上聞に達せられるべしと評定あり。その節、備中の国は雲州の塩冶、尼子の旗下も有り、四国の細川、三好の旗下も有り、播州の赤松旗下も有る故に国乱す。御近侍、二階堂政行、上野民部大輔、伊勢左京亮備中へ差し越され、国侍を御身方に引き入れ候様にとの上意にて、上野民部大輔は下道郡下原郷鬼邑山に在城、伊勢左京亮貞信は小田郡江原村高越山に在城、二階堂政行は浅口郡片島に在城、近郷の地頭を冠職として在城、国中に制札を立て貧民に財を扶助し貧者を愛し孤独を禁ず。これ故に国民親付する事父母の如し」とあります。

 その後、永正年中に上野民部大輔信孝は京に帰還し、一族の上野四郎次郎高直が信孝の後を受け継ぎ喜村山城(鬼邑山城)に入り、又、上野兵部少輔頼久が備中松山城に入りました。(後、喜村山城他一連の城は滅亡し、一方、松山城は存続し繁栄したことから、後世において、史実が主従逆転し、錯誤して伝えられることになる。)

 上野兵部少輔頼久は、備中松山の臨済宗天柱山安国寺(頼久寺)を再興し菩提寺としました。頼久の後は、嫡子上野伊豆守頼氏が家督を継ぎ備中松山城主となりましたが、頼氏は、天文二年(1533)に庄為資によって攻め滅ぼされてしまいました。

 中国太平記によれば「大松山には上野伊豆守居住して小松山の城には同右衛門尉を置かれける処に、天文二年猿掛の城主庄為資押し寄せて相戦う。庄は当国の旗頭たるにより、植木下野守秀長、庄に力を合わせ横谷より攻め掛け、上野の勢を追い崩し伊豆守を討ち取り、大松山を乗取る。小松山の上野右衛門尉も植木が一族若林二郎右衛門に討たれし」とあります。

 上野四郎次郎高直は、下道郡市場村の臨済宗万寿山報恩寺を再興し菩提寺としました。又、撮要録巻二十八寺社部によれば「備中浅原牛頭(こず)天王棟札に、永正十六年林鐘(六月)三日奉改地再興也、領主上野四郎次郎高直」とあります。高直の後は、嫡子上野肥前守高徳が家督を継ぎ喜村山城主となりましたが、高徳は、弘冶年中(1555〜1558)に備前常山城に移り、この城を居城としました。

 上野肥前守隆徳(高徳)は、元々格式に聊かの開きがありましたが、備中松山で無残な最期を遂げた一族上野伊豆守頼氏らの仇敵、庄為資の嫡子高資を討ち、備中に勢力を拡げていた三村家親の娘を室とし、三村氏との縁故を深めていきました。

 元来、上野氏は、民部大輔信孝を通じて毛利氏と格別の信頼関係を有していましたが、信孝も、又、元就も他界して後、肥前守隆徳は、三村家親の嫡子元親に加担して毛利氏に対抗することとなり、その挙句、天正三年(1575)に小早川隆景が率いる毛利軍によって攻め滅ぼされてしまいました。これが、世に云う常山合戦です。

 上野肥前守隆徳は、備前常山城主として臨済宗豊岳山久昌寺を再興していますが、上野氏の菩提寺であった報恩寺(倉敷市真備町)には、隆徳とその室の当時からの位牌が、今も祭られています。

 尚、上野民部大輔信孝は、足利第十三代将軍義輝の重臣を務め、永禄六年(1563)に逝去しました。又、信孝の嫡子上野中務少輔清信は、足利第十五代将軍義昭の重臣として、歴史に名を記しています。

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