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 西園神社の祭神は、品陀別命です。

 品陀別命とは、第十五代応神天皇{在位;応神天皇元年(270)〜同四十一年(310)}のことです。

 応神天皇は、母の神功皇后が、父の第十四代仲哀天皇崩御の後、摂政となり、朝鮮半島に出兵して新羅を攻め、新羅は降服し朝貢を誓い、後に高句麗と百済も朝貢を約したとされる三韓征伐の際、懐妊しており、神功皇后の胎内にいたということから、武神として、又、誉田天皇広幡八幡麿を称して現れた八幡神として、多くの武将に崇拝されました。

 なかでも、源義家は、石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と称されました。

 石清水八幡宮は、弘法大師の弟子であった大安寺の僧侶行教が、第五十六代清和天皇護持祈祷の為、貞観元年(859)に宇佐八幡宮に参詣した折に神託を受け、その翌年の貞観二年(860)、清和天皇の命により、京の男山に社殿を建立して勧請し、創建されたもので、爾来、皇室や朝廷の守護神として、天皇や上皇の篤い信仰を受けて参りました。

 西園神社は、北面武士であった白神右京亮果春が、室町時代の永正年間に、第十代将軍足利義稙の命により備中に遣わされた一族の上野民部大輔信孝に伴ってこの地を訪れ、馬入堂山城の城主となり、天文九年(1540)に、城や所領の守護神として、石清水八幡宮を勧請して西園八幡宮と称し、創建したものです。

 当社は、元来は城の守護神、後には園荘(東薗・西薗)の産土神として祭られましたが、江戸時代の寛文六年(1666)に、第四代藩主伊東信濃守長貞が川辺から岡田に移ったので、その時より、氏神として世々藩主が尊崇し、毎月一回当社に詣でるのを例として種々の寄進をしています。

 例えば、第五代藩主伊東播磨守長救は馬具一具を寄進、幕末期の第十代藩主伊東播磨守長卆は弓一張、矢百本、槍二筋、纏二流、絵馬一面などを寄進しています。

 又、家老の千石平左衛門定盛は神田一反を、定盛の孫で後に生駒家を継いだ仙石平四郎定治は燈籠一基、辻田村庄屋池田半七は燈籠二基及び銀二十匁などを寄進しています。

 明治維新よりこの名に改めて村社となりました。

≪因みに、西園神社の園には草冠はありません。それは、西園神社の西園は「備中西園」の西園、つまり、園は、備中國園荘(園庄)の園だからです。又、岡田藩主伊東家の所在地の表示には、吉備中津國下道郡園庄岡田郷との記述もあります。尚、東薗・西薗は、園東荘・園西荘のことです。又、園=東薗(岡田村・辻田村)+西薗(市場村・有井村)ですが、園の近世(江戸時代)の人口比率は、市場村:有井村:辻田村:岡田村=40:24:19:17で、西薗(市場村・有井村)=現在の薗が、人口的には園の大半を占めていたようです。≫

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白神氏『西園神社の由緒』