『白神』という氏名の由来について


「白神」という氏名(うじな)の由来については、現存する史跡や文献(火災で多くを焼失)によって確認される事柄はなく、詳細なことは分かりませんが、「白神」氏が、天神・菅原道真公を祖とする菅家の正流であり、又、元来神職の家筋でもあったことなどから、北面の武士となった世に、上皇より、「白神」の氏名を賜わったものであるといわれています。
 また、(1)史実検証が不可能な、山城國方面の過去において消滅した「地名」による。
    (2)地名や役職などの複合による。例えば、「白河の神主」
    などもいわれています。
 因みに、万葉集(大宝元年十月に持統太上天皇と文武天皇が紀伊国行幸時の歌)にも「湯羅の崎 潮干にけらし 白神の 磯の浦廻を 敢えて漕ぐなり」と詠まれているように、「白神」という名称は古くから見られます。

 尚、清寧天皇の「白髪部」から「白髪」、「白髪」から「白神」、という説を尤もらしく唱える人がいますが、歴史上、これを裏付ける事実はなく、又、史実上、これには必然的な矛盾が生じることから、これは、推測や想像だけで、史実検証を伴わない、ただ単に読み方が「しらが」であることに囚われた稚拙な思考による空説であるとされています。

「白髪」氏については、聖徳太子の時代より100年もの昔から、桓武天皇の時代に父君の光仁天皇の諱の白壁(しらかべ)を避けて「真髪部」(まかべ)に改められるまでの約300年の間の「白髪部」(しらかべ)に由来するというのであれば、各地の「白髪部」を中心として、全国的に相当数の同姓の分布が必然となりますが、その事実はありません。

 又、「白髪部臣」や「白髪部首」の後裔としては、「白髪部」から「真髪部」(真壁)に改められたことによる「真壁」氏を始めとして種々の氏名が確認されていますが、「白髪」氏が「白髪部」であるという事実は確認されていません。

 更には、仮に、「白髪」氏を「白髪部」に由来するとした場合、「白髪部」から「白髪」氏となった比率は、全体的にも、又、確認されている他の氏名と比較しても、極めて低く、これは、ごく稀で、特殊な事象ということになり、蓋然性に欠けるものです。そして又、この仮説は、「白髪部」が「真髪部」(真壁)に改められた史実をも否定することにもなりますし、又、かかる臣民が御名を称したことにもなります。

 つまり、日本書紀に、清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子尊)の「白髪」も、「頭の白髪」に由来するとのことが記されているように、「白髪」氏も、安易に、或いは、無理やりに「白髪部」に結び付けるのではなく、「頭の白髪」、若しくは、それに関連する「白髪山」や「吉慶の共白髪」等の一般的な「白髪」に由来すると考えた方が寧ろ自然です。又、「髪」の元来の読み方は、「か」で、「白髪部」が「しらかべ」、「真髪部」が「まかべ」、「白髪」が「しらが」となったようです。


「白神」氏については、「菅原(朝臣)」を本姓とし、山城國を本拠地としていた独特の氏族であることが、史実検証によって確認されています。尚、「白神」氏は、北面の武士として、代々、天皇家に仕えていましたが、北面の武士は、本来、上皇を護衛する官職であり、室町時代末期において、後土御門天皇、後柏原天皇、そして後奈良天皇は、在位中に崩御し、上皇が不在であったこともあり、後柏原天皇の御世の右京亮果春の代に、足利将軍家の一門である従兄の上野民部大輔信孝に伴って備中を訪れ、下道郡の馬入堂山城に入り、其の儘、当地に土着したといわれています。

 又、「白神」氏と「白髪」氏との関係については、文献その他、明白な錯誤の記述を除いては、過去に遡って、何ら確認される事実がありません。

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