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 馬入堂山城は、別名を馬場入道山城と云い、八代の鬼邑山城と並んで市場の馬入山頂にあった城で、築城年や築城者は不明ですが、旧山陽道や河辺の渡しを間近に見下ろし、備中の要所を占める城として、かなりの規模のものであったと伝えられています。

 室町時代の永正六年(1509)に、十代将軍足利義稙が備中固めとして、近侍の上野民部大輔信孝{鬼邑山城}、二階堂大蔵少輔政行{片島城}、伊勢左京亮貞信{高越山城}等の諸将をこの地に遣わしたのに伴って来た民部大輔一族の白神右京亮果春が、苑郷周辺を知行してこの城に入り、その嫡子右京進が、備中兵乱とも云われた天正年中の内紛沙汰に加わることを避けて、嵯峨野に土着しこの城を下りるまで、二代凡そ七十年に亘り居城としました。
 その後この城は再び利用されることは無く廃城となり、城址(馬入山)は、嵯峨野村(市場村)の管理となりました。

「天正三年(1575)正月十六日小早川隆景率いる毛利軍鬼身城攻撃にあたり、鬼邑山城に毛利元清が、又、馬入堂山城に宍戸隆家が陣を布いたなどという説がありますが、これについては、実際の立地や地形を何ら承知しない後人が史実に絡めて脚色した虚説であるとも云われており、事実は未詳です。」
於;馬入山頂
馬 入 堂 山 城 址
馬入山麓・市場方面
総社・山手・清音方面
川辺・岡田・有井方面