これも、
今だから言えること



 育児のさなかのこまぎれの時間をつなぎあわせては、
家の中のことをやったり、パソコンをいじったり、
書物をめくったりしているわけですが、
最近、すごく共感する話に出会ったのでちょっと紹介します。
吉本ばななのお父さんの弁なのですが・・・



 自分の精神がどうやって成長してきたか考えてみると、
どうも別れから成長してきた気がします。
 (中略) 
もちろん本を読んだとか、誰かと話して、誰かとつきあって・・・
いろいろあるわけです。
ただいつまでも残っていていちばんまとまった印象があるのは、
別れが強いと思います。
死別もあり、生別もあり、失恋もあり、いさかいもありですが、
そんな別れのときの感じ方で、自分の精神上の年輪を増やしていった、
というのがいちばん印象に残っている。
なぜ、それでも出会いを求めるのかはわからないんだけど、
別離とか死から、失ったものと得たものと、どっちが多いんだといったら、
失ったものも多いけども、得たもののほうがもっと多い。
その余りがずっと残って、悲しみの感じとして、年輪になる気が僕はしますね。

(吉本隆明「僕ならこう考える」より)


 精神の成長とかっていうと、何ともおもはゆい感じはするものの、
絶対的な喪失感のなかから得るもの
それって、目には見えないけどやっぱり大きいと感じます。
といっても、私の年表なんか32年分しかないわけで、
そのなかで経験した別れなんて、幸か不幸か片手で数えられるくらいです。
もちろんそのうちのふたつは、形にすらならなかった小さな命との別れです。
どんな別れであっても、それは悲しいし、つらいし、やりきれないし、
もう嫌だ!とすべてを投げ出したくなるものだけど、
いったん涙と一緒に心を空っぽにして、そのからっぽなとこに、
気持ちいいもの、気を奮い立たせてくれるもの、和らげてくれるもの・・・
などなど、ひとつずつ、少しずつ詰めていくと、
それが満たされてくる頃には、心が掃き清められたような気になるものです。
積もり積もったほこりや塵も、心をひっくり返したと同時に一掃されてね。

いつもより少しだけ貪欲になって、
その心の空洞に何やら詰め込んでいく「ポジティブな過程」・・・
それって、すごく大切だと思います。

 まぁ、これも今だから言えることだけどね。