- あの1985年の日本一を知る最後の選手である和田豊選手がついに引退を発表した。和田は、プロ野球選手としては小柄あり、派手さはないが素晴しいものをたくさんもっている。しぶとい打者であることは間違えがないだろう。和田は、日本大学から1984年のドラフト3位で入団。「背番号6は重いのではないか。」という見方だった。その前がタイガース生え抜きで2000本安打を達成した藤田平氏の後だったから。しかし、村山監督が大野・和田・中野の3人を「少年隊」として抜擢したあたりから活躍し始めた。犠打のタイトルを獲得した。
- 球場へ行くと、「和田は何かしてくれる。」と信じながら応援するのが楽しみだった。また、3割近く打てるからだ。ライト打ちが得意な選手で「和田あり」というようなヒットが素晴しかったし、ボールにくらいついていっていました。全力でプレー、ピンチになったら投手に一番先に行く、人柄のよさと誠実であったこと。
- 表題に書いた「本当に幸せな」について触れていく。日本一を経験できたことである。優勝経験をタイガースで経験できずに引退や移籍した選手がたくさんいる。江夏豊、田淵幸一、藤田平はできなかった。引退試合が巨人戦であったこと。最高の舞台である巨人戦が引退試合になり、消化試合の中でも50000人が入ってくれた。長嶋監督の突然辞任でこの試合が最終采配となり巨人ファンが入ってくれたが多くの人の前でできたこと。引退試合をできる選手はごくわずかだ。これまでにないいい引退試合だった。
- 「1番セカンド和田」で先発出場した。1打席かと思ったら4打席だしてもらえた。現役最後の1739本目のヒットは、3回裏にでた。内野ゴロで駄目かと思ったんですが、仁志があえてとらないでボールを外野へ転がっていった。塁に出て濱中の犠牲フライでホームベースに戻してあげたこと。同じ歳の広澤がフォアボールでた和田をヒットで返してあげたこと。この日の応援はいつもと違った。一生懸命で暖かい応援だった。
1997年の和田は危機を感じていた。ドラフトで今岡を獲得。そして、大型内野手としての評価だった。開幕から頑張り続けた。開幕24試合連続安打を達成をして、記録を塗りかえた21試合目でニュースステーションに出演もした。4月の月間MVPを獲得し順調だった。ところが、7月13日のナゴヤドームでの中日戦で古池投手から手の甲にボールをぶつけられ戦列から離れた。オールスターでファン投票セカンド部門で1位だったのが、これで出場できなくなり残念だった。大阪ドームでの試合があったのに。復帰後、9月23日の巨人戦で延長11回サヨナラヒットを打った。この年は3割にのせた。翌年、開幕の横浜戦先頭打者安打を放つものの後続がゲッツーでアウト。試合はこの安打1本だけで終わった。5月23日に1500本安打を達成。99年頃から出場機会減り始め、今年から1軍打撃コーチを兼任し二足の草蛙を履くようになった。今季は代打専門でようやくヒットが出たのが7月の横浜戦だった。
- 私自身、タイガースの試合を初めてみたのが1997年8月30日の対横浜戦だった。和田は故障で2軍だった。私が生で見た試合で記憶に残っているのが、1999年5月23日の対巨人戦だ。1回ブロワーズのタイムリーで1点先制したが、3回に松井の12号ツーランで逆転。6回に巨人上原から粘って同点タイムリーを放った。ファールかの判定で長嶋監督が飛び出してきた。桧山の逆転タイムリーで勝った。これからはコーチとしてタイガースの後輩を育てることになる。一人でも多く「いぶし銀」と呼べる選手をだして欲しい。将来、いい指導者になることを期待する。本当に17年間、我々に感動を与えてくれてありがとう!本当にお疲れさまでした。和田豊万歳!
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