20211203-20241228
消えたはずの記憶20241228-02 批判的無神論とは何だったのか20241228-01 批判的無神論とは何か◎宗教は人を幸せにするか否か◎宗教を信じるとは、「人生の全てを捧げなければならない」ことか否か◎人生の全てを捧げるとは具体的にどのようなことか◎死後が存在しないと考える人間には、死してなお中心はそれになりうるのか?20241223 私が神の道にいささかも帰依できない理由20241220 詩歌20241218-02 投函されなかった手紙20241218-01 邪教とは何だったのか20241205 異常者たる諸君に告ぐ20241201 現実への盲目性を糾弾する時の流れに身をまかせ如何にして狂人の一週間は常人の三ヶ月となるか防弾少年団「たくさん愛してください、お前自身を」20241027 不調感を抱きながら不死鳥は甦る20241024 酔払いの手帖第0段階:シラフ第1段階:上機嫌第2段階:火照った身体第3段階:ライターヤスリ無限回し第4段階:音楽を無視したフラワーロックその後:意味不明行動翌朝:宴のあと増補:これ以上の段階20241020 妙法蓮華経方便品第二を唱え20241015 小説「恋に恋した乙女」20241007 無題なんと清浄な都市遁走 ――南知多町内海に消ゆ――20241006 右翼思想と菜食主義菜食主義はリベラルなアレだと思われがちであるあなたの菜食主義はどこから異体同心の思いを持って20241001 週刊「大豆肉を調理する」創刊(?)大豆肉に関する一部の誤解大豆肉のここがすごい!大豆肉魂(??)20240926 個人サイトよ、永遠なれ20240925 晒木綿至上主義20240925 菜食主義について20240917 自称「おなべ」は悪なのか20240611 底なし沼に落ちた酔っ払い20240605 酔っ払いの戯言20240412 紙の本が読みたい20240319 小田島式気分転換法◎何が楽しくて生きているのか分からなくなってきた◎何が何が辛くて苦しいのか分からないのが苦しい◎どうしても苦しみの原因を解明して除去したい◎そもそも自分が何のために生きているのか分からない20240319 恋愛関係の有無は優位性の指標となるか20240310 雑念 #0220240306 雑念#0120240226-03 燃料の残量計は存在しない20240226-02 ゴーストライターの文章20240226-01 金の鳩は何処へ飛ぶのか20240206 何かのために20240130 潰れた蠍20240126 Necrophilic-Psycho Dream20231226 理解者なき秀才か、落ちぶれた狂人か20231225 公開処刑最近のトレンドは廃仏毀釈ならぬ廃神毀耶蘇らしいですサンタクロースをフライトレーダーで追尾するのがトレンドらしい20231212-02 怪文書を拾った20231212-01 推し神棚とは何であるか20231118 あなたの体調不良はどこから20231028 気力が欲しい20231006 何のために生まれて20230727 精神科閉鎖病棟からの叫び声絵を書くことにすら喜びを感じられなくなった今、私は何によって喜びを感じればいいのか楽しいことがないと嘆く前に、まず元気な頃にしていたことを思い返してみる20230625 私の部屋はガラクタで溢れている20230605 生きた証を20230528 私は病んでいる20230504 私が生まれ変わった時20230404-02 平和20230404-01 暗闇に過去の光を見ゆ20230319 つらさの権化20230317 Peace Light20230301 平和とともに20230219 しょうもない単発ネタ集20221231 穏やかに20221230 クレカを捨てて、街に出よ20221225 巷で取引される怪しい商品20221224 (今回の更新はお休みです)20221221 中華うぶんつ20211228202112172021121520211214202112132021121220211211-03 無題20211211-02 無題20221211-01 新しいパソコンがほしいんじゃ!!!(CV:千鳥ノブ)2021120720211206202112052021120420211203
※この文章は「批判的無神論とは何か」の続編である。
そもそも神と仏を同列に並べて考えることは間違いではなかろうか?
キリスト教において全ての事情に理由があるとするならば、何故世界は無から生じたのか? 無から世界が始まったとき既に神が有るとしたらそれは無ではなく、それを無とするならば神は無である ⇒故にキリスト教の世界の創造の物語は虚構ではなかろうか?あえてビッグバンなどと紐付けて考えるほうがバカバカしい
世界とはそこに有るから有る ⇒神とかそんな何かが作ったものではない、創造者を作り出すものも存在するわけで、突然無から有が出てくるというのは因果律に反している
とにかくこの世にキリスト教ほど大きくてナンセンスな宗教はない。 そこの派生分派は論外。話にならない。日本人はよくそんな無意味な神の誕生を祝うと称して商業主義に溺れられるな、と呆れるばかりである。
結論:キリスト教は邪教。
†
日本人ほど節操のない民族はない、神仏は習合できない!!
神道を右翼はありがたがるが、実際社会の差別意識の基盤を作り上げたのは神道である。 死が穢れ(気枯れ)」である故に、「穢多・非人」という扱いが生まれている。 廃仏毀釈などバカも休み休み云ってほしい。
↓これこそ休み休み云え 日本の全右翼は妙法蓮華経に帰依せよ (日蓮主義??)
結論:法華何派?うちは身延派ァーッ! (註:この言葉は鍋キューブのCMで阿部サダヲの叫ぶ節で読み上げてほしい。日蓮主義を訴えるは国柱会であり、身延派の分派である。)
神の意志によって罰が下ることはキリスト教においてはない。 神が悪いのではなく人の無限の欲望が結果的に悪を生み出している。 悪い宗教というものは本来存在せず、集まる人のエゴや自己中心的な思想がそれを悪い宗教に仕立て上げているだけであると私は信じたい。 神を憎んだところで何にもならないし、人を憎んだところで何も変わらない。 キリスト教的考えにおいては、全ての事象には理由が有り、どのような形であれ全ての事象は「完成する」。負の事象にも抜け道は存在し、そもそもその事象が負で有るかどうかは人間には知る由もない上に、人間が判断することですらない。
→本来であれば是、個人的経験からは否
「全てを捨てる覚悟が有ればこちらに来なさい」そう云われたことが有る。恐らくだが、今までの幸福とは全く違う価値観の世界に入るという意味だろう。然し、それによって現在の幸福は抹消される可能性が有る。その恐ろしさから私はあのとき逃げるように離れたのかもしれぬ。そもそも、幸せとは何で有るか未だにわかっていない。
→人生の中心がそれに成る、かつその中心は永久的になくならない。死しても尚中心はそれである。
→そもそも死後の世界は誰のためのものか?浄土?天国?永遠の命?
肉体死せども精神は死せず、という考えはどの宗教にも有る気がしている。
私は小学生の頃より今に至るまで、死生観を強く深く濃厚に考え続けてきた。 昨今の私が巻き込まれている事件などにより、何故に私が幼少期より死生観を考えてきたのか、ようやくその理由が判明したような気がしている。
私は、新卒で自ら進んで葬儀会社の面接を複数受けた。 いずれの会社にも就職することは叶わなかったが、現場同行など経験できたため何ら無駄な経験ではなかったと考えている。弔うということがどれほど故人様にとって重要か、そしてどれほど残された人間にとって重要か、この経験によって改めて感じることができたと思っている。
私は、非業の死を遂げざるを得なかった人間たちを、たとえその人間が連続殺人鬼のような凶悪犯罪者だったとしても、正式な形で厳粛に弔いたかったのである。 有限である生の世界にて苦難、憤怒、悲哀が人を包み込んでいたとしても、無限である死の世界においてはどうか福運に包まれていてほしい、そのような感情が幼少期から私の精神の根底には渦巻いていた。
そのようなことから、私は凶悪犯のような極悪人にこそ、死刑執行は行えど丁寧な葬儀をも執行してほしいと心の底から願っているのである。
私は今まで、数々の宗教を渡り歩いてきた。人からは「節操がない」と強く非難されたこともあるが、その行動には明確な理由があった。 私はどのような形を持って誰もが忌み嫌って弔わずにいる故人様を弔うべきか、その方法を長らく探していた。葬儀とは故人様のためのものであり、残された我々のためのものでもある。そういう思いで私が自分の納得する弔い方を探していたところ、辿り着いたのが日蓮正宗だった。
自分の道は自分で切り拓く。切り拓くことができなくなった故人様のためには、残された我々が経を読むことで回向を行い、成仏への道を切り拓く。 それこそが真理であると、日蓮正宗は語っていたのだった。
以下ようやく本題である、私は死を穢れとする神道を極めて強く嫌っている。 気が枯れて穢れとは云うが、私には絶対にそれが正しいとは思えない。死とは新たなる始まりであり、決して気が枯れたと云っていいものではない。冥府にて仏となった故人様は、仏としての新たな道を歩もうとしているのである。残された我々は葬儀の後、それに対して塩を撒いて祓い清める。私にはこの光景が、故人様が疫病神のような扱いを受けて忌み嫌われているように見え、死者を強く冒涜する行為に思えるのである。
以上の理由により、私は神道という宗教にいささかも賛同することができず、帰依することなど以ての外であると、明言するものである。
私はただ自瀆に耽っていた
手のひらに残る白濁した粘液
そんな物で私の虚無は満たされない
私は小箱とマッチをお供に
河川敷を散歩している
しゃがんで独り紫煙燻らす
そのひとときは私の至福
私はただ煙草を呑んでいた
手の中にあるは希望の弓矢
それこそが私の虚無を満たす
†
私は白くて細い筒に火を灯す
その灯は心のともしびとなる
指より細くか弱いたいまつ
その光は私を恍惚へ導く
ああ、消えないでおくれ、たいまつよ
いくらでも燃やしてやるから
紫の煙が立ちのぼる私の手元には
固く希望が握られている
その希望は虚ろなものか
私を導く明るい希望だ
†
乳房の先を咥えるように
柔らかな唇で包みこむ
決して傷つけず 痛みを覚えぬよう
静かに炎を燃やしていく
呼吸に合わせてホタルのように
おまえは私を小さく照らしている
やわらかなひかり 柔らかな唇
私をささやかな優しさで抱く
おまえがのぼらす煙のように
私もあの雲の上まで逝くのだろうか
※この文章は、某所に2024年12月13日付で投稿されるはずの近況報告だったが、事故により投稿されることはなかった。
†
13日の金曜日でございます。皆様御機嫌如何ですか、小田島常陽でございます。
なんとか、冬を越せそうです。今年は色々ありすぎました。何なら11月、12月に色々有りすぎて頭の処理速度が全く追いついておりません。
小田島の頭のRPM(回転数、Revolutions Per Minutes)は1であるゆえに、S45C(炭素鋼)すらも一切削れないのであります。小田島の頭は時計の秒針ではございません。今の小田島は非常に多忙故、ここの更新もブログの更新もままなりません。ご理解の程、よろしくお願いいたします。
それでは、また次回。ごきげんよう。
真実とは何だったのか。私が今まで見ていたものは何だったのか。それこそが私の嫌う「嘘・ごまかし・でまかせ」ではなかったのか。私は誰の目からも明らかに冷静さを欠いていたのだ。
今改めて、客観的に自分を見つめ直す。明らかに私は動揺していた。 揺れ動く心。真実を求めてはありとあらゆる神仏にすがる。その行動は行きつけの古本屋で云い放たれた言葉「節操がない」が全て要約していた。私の何よりも嫌う、心の「ごまかし」を「でまかせ」による行動で、求め続けていたのだと、この北国に来て改めて気づくことができた。ああ、私は大切なものを永遠に見失うところだった。 私の衝動性があまりにもひどいのだと、周囲は最初から気づいていた。それ故、その旨を私に必死になって訴え続けていた。だが、私はそれらを全て蹴り飛ばして揺れ動くことをやめなかった。その結果、沢山の人々を裏切ることになった。
今では悔やむことしかできない。否、悔やむことは何の始まりにもならぬ。過去は変えられぬが、未来など幾らでも切り拓くことができると、私は学んだのだ。 私はこの希望の光が消えぬ前に、再び立ち上がって未来の道を歩んでいくのである。無論、もう揺れ動いてはならない。真っ直ぐに、この明るい日に照らされた道を、たとえ曲がりくねった道だとしても、歩み続けるのである。
※随分と煽動的な主題となった事をお許し願いたい。
†
諸君は「ロリコン」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。「幼女に手を出す不届き者」、世間的にはそんな印象が強いことであろう。だが、それは誤りである。「幼女に手を出す」という時点で、それは「ロリコン」ではなく立派な「犯罪者」であり小児性愛という性的倒錯を抱えた治療すべき「患者」である。
私の中での定義は、夢と現実の区別がついている上で夢を楽しむ人間が「ロリコン」であり、夢と現実の区別がつかずに現実の幼女に手を出して楽しむ人間が「小児性愛者」であり「犯罪者」という扱いをしている。
では、そんなロリコンがすべき行為はなにか。現実世界の女児を「犯罪者」から救い、幸せに生きられるように助けることである。
犯罪者によって痛めつけられた幼女の心は二度と元には戻らない。幼き頃の苦痛は、永遠にその人間の心を蝕む。そんな身勝手な犯罪者によって苦しむ幼女を、一人でもこの世から減らすのが、ロリコンの義務である。
そして、この世界には我々のように毎食豊かに食べることのできる子供ばかりではない。日本を見渡しても災害などで飲食に困るのは誰よりも、生れたばかりの乳飲み子や、成長期の子供ではないだろうか。世界を見渡せば、日本以上に困窮している子供も数多く存在する。
本当に子供のことを愛しているのならば、犯罪者のような自分の欲求を満たすだけの身勝手な行動などを子供に対して取れるはずがない。それは愛ではなく虐待である。
私からのお願いとしては、WFPでもセーブ・ザ・チルドレンでも国境なき医師団でもユニセフでも、何でも良い、とにかく未来を担う子供を救ってほしい。どのような手でもいい。身近に住む小学生の児童のためにパトロールをするのでもいい。少しずつ信頼を築いて、助けてあげてほしい。
そこに子供を思うための心が有るならば、諸君は警察に広報されるような不審者ではない。
気づけば師走である。激動の一年だった。年の始めに突然日蓮正宗の寺院へ突撃したのも、今では何年も昔のことに思えてならない。以前より私を知っている人は私の口から頻繁にこの台詞を聞いたと思う。
「私の中の一週間は、一般的に三ヶ月くらいが経過したような感覚だから……」
実際そうなのである。私は二週間ほど前には東京にいて徘徊をしていたのだが、その時の出来事は既に私の中で「甘酸っぱかった青春の思い出(徘徊行為が甘酸っぱい???)」のような感覚になっている。あまりにも毎日色々な出来事があり過ぎる故、時間経過の感覚が人よりも速いのか、遅いのか、正直自分自身にもどのように説明すれば適切なのかが判断できない。(筆者註:この文書を再掲している2025年2月現在、この甘酸っぱかった思い出は闇の深くへ抹殺したい程の黒い歴史となった)
何と云っても、私には一日が二十四時間しかないというのが、行動量と比較するとあまりにも不足しているとしか感じられない。一般的に云われる、「一週間は長い」が、私にとっては十日くらいあったとしても短いことであろう。宇宙の法則すらも崩壊させてまで、私は自分の欲求を満たす行動をする人間ではないので、一週間を十日にするような阿呆行動には出ない。そもそも私は世界の創造神ではない。
私に何が不足しているのかというのは明確である。それは、物事を記憶として脳内に落とし込み、客観的に記憶を見た上で考察・反省・次への教訓を叩き出すという時間である。私が行動を起こしている時に、私の脳は現在の行動について考え、同時に過去の行動の総括をも行わざるを得なくなっている。さすがの私でも、一般的な行動量の人間であればその二つをそれぞれ時間を分けて行っているのは概ね理解している。だが、私は無理に脳へこのような無理難題的マルチタスクを強いている。しばしば私は自分の記憶を無意識かつ一時的に欠落させてしまうが、これを踏まえて考えると無理もないだろう。
このように文章へ出力することは、私が記憶を客観的に見て考察をすることにつながっている。だが、最近はそのような自分の記憶を保持するための重要な文章すらも執筆が追いついていなかった。いくらでもこの場を借りて述べたいことはあったが、まとめきれぬまま幾つも考えが消えたことだろうと察する。その中には私の思想の中核を占める何かもあったことだろうから、非常にもったいない事をしている自覚がある。
「行動量を減らしたい気持ちは非常に強く持っているのだが、それをするために私は不労所得を得なければならない、生きる糧を生み出す労働時間すら犠牲にして、私は行動をしたいと願っている」、そんな極端な考えにも囚われつつある。そんなものは自分の首を絞める行為以外の何物でもない。不労所得など得たところで私はアクティブニートとして腐っていくだけだろうし、宝くじは簡単には当たらない。いつ私の名前と居所が官報の破産者名簿に晒されるか怯えるような毎日は決して送りたくもない。
私にはおそらく、自己肯定感ないし自己愛も足りていない。自己犠牲を払っても満面の笑みでいられるほど自分が富や名誉を持っている人間ではない、そして自分にはそんな余裕はないということに、愚かにもごく最近になって気づいてしまった。大昔に片足を突っ込んで引いた天理教の「人助けて我が身助かる」の教えは、私に適応してしまうと非常に危険な思想だった。人を愛するためには、まず自分を愛さねばならない。耶蘇教などとうの昔に棄てた身ではあるが、「自分を愛するように隣人を愛せ」というのは何だったのか、もう一度考えてみてもよいのだろう。
先程まで、「尊皇思想と政教分離」の続きを書いていたが、どうも文章がまとまらない。頭の中の考えははっきりまとまっているのだが、それを文章として可視化することが今ひとつできないという状況である。まとまりのない考えが滝のように溢れてくるような感覚を覚えた時期は過ぎ、消耗を癒やす時期がやってきたような気がしている。
その時は非常に落ち着きがなく、「学生時代の末期頃から温めていた計画である」ということを口実に、「一度仕事など放り出して大学院に進学したほうが私は楽しいのだ、学術で博士号(D,Ph)を取ってやる」などと一見正気を失ったかのような発言を辺りに撒き散らしていた。思えば私は過去にもそのような時期に突拍子もなく「次の市議会議員選挙に出馬するので応援してくれ」などというホラを吹いていたような気もする。
これには今は亡き安倍元総理も「そんなに興奮しないでください」と云わざるを得ないだろう。
大切なことほど不安定な時に決めてはならないと明言されている身分である。冷静に物事を考えて、冷静な時期でも同じことをして自分は幸せかどうか理論的に判断した上で動かねばならない。躁鬱人間の義務である。早く人間になりたい。
余談だが、最近の私を見ている人からの助言の中に「気分の高揚に拍車がかかると敬語に関西訛りが混じる、それを止めずにいると大声でまくしたてるように喋り、その様は何かに怒っているようにも見える」という物があった。であるゆえ、私の敬語口調の標準語が関西弁じみてきた時は問答無用でハリセンを使って後頭部を殴っていただきたい。それで私が冷静に戻るかどうかはわからないが、何かの気付きには間違いなくなるだろう。
いつものAに呑みに来たが、まだ開いていない。Aの常連客がよく話題にするMという店に行ってみようと思い少しばかり歩く。この時期は風があれば涼しいどころか寒いくらいだが、なんだかじめっとしていてほんのり汗ばむような気候だった。
Mに着くとそこにはあのAの常連客御一行が座っていた。挨拶をし、とりあえずビールならぬとりあえず黒霧島のお湯割りをいただくことにした。喫煙所は外にあるという。三人で談笑しつつ、蛸の刺し身をいただきつつ、和やかな時間が過ぎていった。
私は御一行が「また後で」とジョークを飛ばしながら帰ったあとも黒霧島のおかわりをし、魚介を楽しむことにした。目頭が熱い。うまい具合に酔いが回ってきている。店員に「私は1.5合以上日本酒を呑むと帰路で機嫌よく歌を歌って歩くことになる」と笑いながら話すなどした。ただし2合を限度としている。
目的のAまで戻ってきた。いつもどおり梅酒のロックを頼む。既にそれなりに酔ってはいたが、何も酔っていないような心地故に、調子に乗りつつある。紫煙を燻らせいつもの心地よいひとときを過ごした。この気分の良さが躁状態からくるものなのか、酔っているからなのか、この時はわからなかったが確実に後者であると断言できる。気分がいいから鍵盤を弾くとなり、明々後日の方向を向いて鍵盤を叩いても音が合うというこの状況は、間違いなく酔っ払いである。
周りの顔見知りの客たちがこぞってジャックのハイボールを頼むものだから、潰れかけの私もウイスキーなど普段は一切飲まないというのにつられて注文する。ああ、素晴らしい華金だ。そんなことを思っていたが今日は水曜日である。お会計で、という私の声から店主は散々に酔っ払っているとすぐ察し、氷水を出してくれた。
帰宅後、服を着替え布団の上に直行する。泥沼に浸かったように体が動かない。携帯電話でメッセージのやり取りをしていたので続きを返さねばならぬ。単語を打つ。誤字。送信。しまった。単語を打つ。全く同じ誤字。送信。何をやっているんだ。流石に「大丈夫か」と心配される。「ヨシ!」と返信するも多分何も良いとは思われていないだろう。
あんなに呑んだというのに、夜中に何度も目が覚めることもなくいつもどおりの時間に目が覚めた。枕元の眼鏡をかけようとして傍らをみたら、眼鏡は2つ置かれている。私の目は一対しかない。
「第5段階:潰れた人」、「第6段階:死に至る」という段階も実在し、実体験もある。 ここから云えるのは、食べる前に飲まねばならぬことである。私は食べすぎた後に飲みまくると吐くのである。
嘘を吐くのにも限界がある。私はもう自分の感情に嘘を吐くことへ限界を覚えてきた。ここ最近の気分の著しい高揚も、何も単純にテンションが上がって元気になっているわけではないのだと、「嘘を吐くことをやめようとしない小田島」には早く正しく自覚をもたせてほしかった。
この白頭山どころかK2の頂上を見るような気分の昂りは、全て私が苦し紛れに極度まで深い悲しみを隠すための「大きな大きな虚構」だったのである。あと数日でも早く気づくことができたのならば、私は架空の人間をあたかも存在するようにでっち上げて仲良くするというような暴挙を果たす程には気が狂わずに済んだのかもしれない。
私の気分はこのままK2の頂上を間近に見ようとしたところで、日本海溝の海底を見るほどには転落していくことであろう。幸いにも転落したとしても、致命傷を負うだけで済むだろう。
ただ、そんな致命傷を何度も負ってきた私だからこそ、様々なことを許容できたところも否定できない。
私の大学生からの座右の銘に「弱きを助け、強きを挫く」というものがある。正しくとも弾圧される者に対して優しく味方をし、間違った権力には真っ向から立ち向かう。そんな大げさな意味ではあるが、その座右の銘に沿って生きることができるようになってきたような気が、致命傷を幾度も受けてきた今ではそんな気がしている。
強く、生きねばならぬ。
※この物語は、朝鮮半島の伝承を参考にした創作であり、実在する人物、企業、事件等とは一切無関係である。
†
1.
あるところに、金泰壱(キム・テイル)という工学青年がいた。テイルは非常に頭の回転が早く、工学を学んでいても誰よりも理解の深いとても優秀な学生だった。金一家ではたった一人の息子で、父は必ずや自分の跡を継がせようと考えていたが、テイルには一つ悩みがあった。生まれてこのかた恋愛というものをしたことがないのである。
女っ気のない環境に長い間置かれているから当然と云えば当然だ。だとしても、友人の悪ふざけで女性を辱めるような発言があれば、テイルは真剣にそれをやめるように叱り、女性も一人の意思を持った人間なのだと、強く訴えていた。それだと云うのに、自分は女性と今まで何の交わりも持てていなく、周りの友人が自分の恋人の話をすると云うので、激しい劣等感を心の底では抱いていた。
最近気がかりに思っているのは、年頃の少女があちこちで謎の不審死を遂げる事件が多発していることだった。「俺は何もすることができない」、そう思って死者の数が増えるたびに悲痛な思いで涙を流すのだった。
現場には、必ずすみれの花が咲いているという。今日も一人、又一人と大切な命が失われていく。テイルはそれを黙って見ているのに耐えられなくなってきた。
†
ある日テイルが学校から帰ってきている道中。
「お兄さん、ねえ、お兄さんったら」
背後から少女の声がする。振り向くとそこには純白のチマチョゴリを身にまとったまだあどけない顔の少女が困った顔をして立っていた。このあたりでは見ない顔だと思うのもつかの間、少女はテイルのそばに駆け寄り、困惑するテイルを更に悩ませる一言を囁いた。
「お兄さん、私を愛してくれるかしら……お兄さんなら私を愛してくれると心から思えたの……」
自分にしがみつく少女からは、穏やかなすみれの香りを覚えた。
非常に麗しい身なりをしたその少女は、美姫(ミヒ)と名乗った。
「ミヒ、こんな人の少ないところで女の子が一人で歩くものではない。俺だって男だ。知らない人には軽々しくついていってはいけないよ。仕方がないから今から俺が家まで送ってやる。この言葉も嘘かもしれない。でも、俺はミヒが次の日この竹林で冷たくなっているのを見たくもないよ」
ミヒは帰る家などどこにもないと、静かに泣き始めた。テイルはミヒをなんとか慰められないか、しばらく思考を巡らせた。
――考え抜いた末、テイルは自分の部屋でミヒを匿うことにした。「こんなに美しい少女が不審死の事件に巻き込まれたら、俺はこの子を思って後を追うだろう」、そんな思いがあったからである。
「お兄さん、いや、テイルさん……心底感謝しているわ……今日から私は貴男のものよ……全部貴男の好きにしていいわ……」
妹のような愛おしさと共に、テイルはミヒに対して、初めて女性に抱く特別な感情を覚え始めた。
すみれの花言葉は、「小さな幸せ」だった。
†
こうして、テイルとミヒは同棲を始めることとなった。
しかし、不思議なものだ。ミヒは身なりからも明らかに10代の未成年であり、家出にしては誰からも捜されている様子は伺えない。おまけに例の少女連続不審死事件が起こっている割には、異様なまでに警戒心がないのである。テイルは当初自分が少女を誘拐したとして目をつけられないか心配していたが、そのような警戒する雰囲気すらも周囲から一切感じ取れない。
「私なんて、誰もこの存在を喜ばないのよ……」
ことあるごとにミヒはそう呟くが、同時にテイルの腕にしがみついては甘えるのであった。テイルはミヒにそう甘えられるたびに、「俺は凄く嬉しいよ」と繰り返し返答するのだった。
「テイルさん……私は……」
ミヒが言葉を詰まらせて何かを云いにくそうにしている。テイルはゆっくり、ミヒの心をほぐそうと試みようとした。そして、ミヒは開きにくそうな口を静かに開いてテイルに懇願をした。
†
そんな、いきなり俺になんてことを云うんだ。
確かにミヒは可愛い。本音を云うなら、このまま食べてしまいたいくらい可愛いのは分かっている。だとしても、俺はミヒと会って間もない見知らぬ男だ。そんな俺に対して、こんな可愛い女の子が完全に無防備でいる状況を俺は素直に受け止められない。凡夫たる俺がこんな才色兼備なミヒと付き合うだなんて、罰当たりにもほどがある。しかも、冷静に考えてみるとミヒは一体幾つなのだろうか。少なくとも10は離れている気がする。
「やっぱり、私は誰からも必要とされないのね……生まれてきたことが間違いだったわ……」
俺がごちゃごちゃと考え事をして回答を迷っていると、ミヒは非常に暗い顔をして部屋を出ていこうとした。
そんな風に思わなくていいから。そういうことを云われるのが俺は初めてで、ミヒもこんなことを云うのは初めてだと思う。だから、二人でたくさん、初めてを経験していこう。
ミヒの暗かった顔は一瞬にして太陽のように明るくなり、再び俺のところまで駆け寄ってきた。俺の胸に飛び込み、その小さな身体を全て俺に預け、恍惚な顔を浮かべるのだった。
「テイルさん……私、貴男との子供が欲しいわ……」
今の俺は、俺に対して少女ミヒが懇願した、この異様な内容を繰り返し頭の中で再生せざるを得ないのだった。
†
2.
今日は、テイルさんとお出かけするの。私の見てみたかったお店が今もあるかどうかわからないけれど、こうやってテイルさんと出かけられることが嬉しいの。
「ミヒ、俺がお前の好きなもの、何でも買ってやるよ。食べたいものでも、一緒に食べたらきっと何でも美味しいよ」
繁華街を二人で手をつないでにこにこ歩く。こんな気持ちになれるんだ。もっと早くこの気持ちを経験したかったけれど、テイルさんと歩かなければ、こういう本当の意味での幸せは味わえなかったのだと思ってる。
テイルさんは私の手を決して離れないように固く握っているから、暖かさが心地よく伝わってくる。こんな時間だけでも私は「飛んでいってしまいそう」になるのだけれど、だけれど……。
「ミヒ、寒くないか。俺は温かいものが欲しくなってきたよ。屋台で少し休憩しよう……」
テイルさんは二人分のおでんを注文して、席でゆったりとした表情をしている。緑色のお酒の瓶とミルキスの缶が並んで、まるで小さな私と大きなテイルさんが寄り添っているみたいにも見える。
「そんなこと云うなら、こっちに来いよ」
私が向き合って座っているのが気になったのか、テイルさんは私が隣り合って座れるように調節してくれて、その間にも二人分のおでんは運ばれてきた。温かいうちに、食べちゃいましょう。ほら、テイルさん。お口を開けて。
「ん?ああ……」
串に刺さった練り物をかじるテイルさん。照れくさそうに笑うテイルさん。練り物のかじられた部分を追って食べる私。にっこり笑う私。
「うわ、あああ、ふええ」
テイルさんの顔は耳の先端まで真っ赤になってしまった。いつも私は陰でこっそりテイルさんを見ていたけれど、こんな表情もするのね。とても純粋無垢で、優しくて、素敵なお兄さん。私はそんな彼のことを間接的にだけれど苦しめてしまっていたのだわ……。だとしても、だとしても、私には……。
ミルキスを少しずつ飲みながら、私はテイルさんとの空想をふくらませる。私の年齢なんて全然足りないのだけれど、テイルさんと結婚することまで考えてしまう。本当はもっと早くにテイルさんと出会いたかったけれど、こうなったからにはもう、ね……。
†
動揺が止まらない。酒を多量に煽れば落ち着くとかそういう問題ではない。やはり俺は童貞なのだ。それもかなり色々な物を拗らせている面倒な童貞だ。そんな俺が今、こんなあどけない顔をした少女に思いのままに翻弄されている。最初は強がって威勢を張っていたが全て虚構だ。だが、俺も男にならねばならない。ミヒも意地悪だ。そんなまどろっこしいことするなんて許さないから――
「う、何よ、ひぃっ」
俺は無理やりミヒの唇を奪った。最初は目をまんまるにして驚くミヒだったが、次第に俺に身を委ねてきて、気持ちが良いのか、俺の身体に腕を回して身体をくねらせている。
俺達は人目を気にせず、熱く深く口づけを交わした。俺にとっても、ミヒにとっても、これが初めての口づけだった。このまま溶け合って二人で一つになれるのなら、俺はこのまま命が絶たれても悔いはない。
「……あなた、相当酔っ払っているのね」
ミヒは呆れたような、照れたような、複雑な顔をして俺を横目に見ている。そんなのお前が一番分かっているだろう、お前のせいだよ。お前がそんなに俺を求めるからだよ……。
俺は屋台の店員にミルキスのおかわりを二缶もらい、一つはミヒにやり、もう一つは水の入っていたコップに焼酎と共に注ぎ、口へ強引に流し込んだ。おでんは冷めたが、俺達二人はいつまでも暖かくあってほしいと思いながら――。
†
「あなた、このスカートが凄くかわいい。私も着てみたいわ」
ふわふわと夢を見ているような心地で夕方の繁華街を歩いていたら、ミヒが洋服店の真っ赤なスカートのディスプレイの前で立ち止まる。血のように赤く、それでいて背にはお人形のような大きなリボン、裾には白いふりふりのついた、色白のミヒの印象にぴったり合う可憐なスカートだった。俺は最初「好きな物は何でも買ってやる」と云ったのだ、男に二言はない。
「わあ、とっても素敵よ。ありがとう」
満面の笑みのミヒは、早速買ったばかりのスカートの裾をひらひらと揺らして無邪気にはしゃいでいる。この純粋無垢なミヒを、俺は誰にも汚されたくない。そんなことを考えながら、帰路につくことにした。
†
ゆっくり帰り路で話をしていたら、家につく頃には夜になっていた。ミヒは疲れたのか、俺のいつも寝ている布団で毛布にくるまって、こちらを穏やかな目で見つめている。そんな風にしていたら、俺は何をするかわからないぞ。俺は鋭い目で睨み返す。
「いいのよ、何をしてくれても。私は貴男のものなのだから。好きにしてと云ったじゃない」
いくらでもこの少女は俺を誘惑してくる。本当に好きにしていいんだろうか。このまま溶け合って一つになりたいなどと云ったが、そんなことをしたら俺の理性が壊れてしまうのではないか。今日はもう疲れただろうから、ゆっくりお休みよ。また、二人でいつでものんびりできるから。
「……」
ミヒの瞳から光が消えた。そのまま、ミヒは死んだように眠ってしまった。突然元気のなくなったミヒが気がかりだったが、俺は俺で夕食を食べることにした。
†
真っ赤なチマ、真っ白なチョゴリ、そしてすみれ色のリボン。
私は今日も夜の街を徘徊する。
今日はあの繁華街に行こう。
幸せそうな女なんて、みんな殺してしまえばいいのだから。
お酒を飲んで、盛り上がっている男女。
夜ならたくさんいるんですもの。
背後から近づかなくたって、どうせ誰も私には気づかない。
「苦しんで死ね!」
若い女は突然血反吐を吐き、白目をむいて高さのある椅子から転落。
「くたばれ!」
また別の女は両脚があらぬ方向に歪む。
「爆ぜろ雌犬!」
そのまた別の女は頬に深い切り傷。
せっかく真っ赤なチマを着せてもらえたんですから。
もっと派手にやっても良かったわね。
でもいいわ、皆助かっても苦しみながら生きるでしょう。
私がお前たちを永遠に呪っているのだから……。
白いすみれの花言葉は、「乙女の死」。
†
3.
夕飯を食べることに集中しすぎてしまった。迂闊だった。ミヒが部屋のどこにもいないのである。家中捜したが、お手洗いにも庭の物置の中にもいないのである。父親はミヒの存在を知らない。冗談でも「女の子を見ていないか」などとは聞けない。ああ、俺は大変なことをしてしまった。あんなに具合が悪そうだったのに、どこへ行ってしまったのだ。一人で病院にでも行ったのだろうと思いたかったが、既に近所の診療所は診察時間が終わっている。薬局もまもなく店じまいだ。
ミヒ、「私は貴男のものだから」と云っていたのは何だったのだ。そんなことを云いながら俺のところから何も残さず突然消えてしまうなんて。こんなのはあんまりだ。俺を独りにしないでくれ……。
「何を泣いているの、あなた」
部屋のどこかから少女の声が聞こえた。まさかと思い、辺りを見渡す。
「男の人が泣いているなんて、格好悪いわよ」
見渡さなくても、彼女はそこにいた。布団の上にしゃがみ込んで涙ぐむ俺の傍らに、ミヒは姿勢良く座っていた。ああ、ああ、どこへ行っていたんだよ。どうして俺を独りにするんだ。
「冬の始まりの空気の冷たさが好きなの。少しだけお散歩」
小さくて真っ白な手は氷のように冷え切っていた。よく見ると、手の甲に何かで引っ掻いたような傷が複数ある。この辺りに野良猫などいただろうか。――ひとまず戻ってきてくれたことに安堵、ミヒを抱き寄せて温める。
「テイルさん、あなたはいつも温かいのね」
俺の頬骨を撫でる白くて繊細な指。そこへ口づけする真っ赤な唇。真っ黒で濁りのない綺麗でつぶらな瞳。そして、この上着の奥には何が隠されているのか――。
「温かいのね……」
ミヒの手は俺の下半身の膨らみに伸びていた。ミヒの指先の動きは、俺を確実にその気にさせていた。極力ミヒの前では平静でいることを心がけていたが、やはり身体は正直だ。俺も男なのだ。
「そう、そのまま……」
俺は無意識のうちにミヒの上半身にある二つの膨らみをゆっくりと服越しに揉みしだいていた。服を着ていると全く気づかないが、なかなかに揉みごたえのある、決して小さくはない膨らみだった。ミヒは真っ白だった顔を紅潮させて、静かに喘ぎ始めた。あんまり激しくするな、父ちゃんが聞いて驚くから……。
「ん、んう、ぅぅ」
ミヒの口をふさぐことを口実に、俺は唇を重ねた。時間が経つにつれて、重ねた唇からはねっとりとした水の音がした。その音が淫らになっていくのに合わせて俺は昂ぶり、両手の動きが激しくなっていく。もはやミヒの口をふさいでいる意味はない。
「テイルさん……また、私に甘いミルキスを飲ませて」
この純粋無垢な少女は、どこでそんな表現を覚えたのか。俺も我慢する理由がなくなってしまった。このまま、二人で溶け合って、一つになろう……。
†
朝の日差しが眩しい。気を失うほどに初めての快感を幾度も覚え、そのまま俺は寝間着も着ないまま眠ってしまっていたようだ。ぼんやりとした意識の中、俺は再び異変に気がついた。ミヒが部屋のどこにもいないのである。
瞬時に目が覚めて辺りを見回すと、枕元にはミヒが身につけていた白い上着と真っ赤なスカートが丁寧にたたまれて置かれており、すみれ色の髪飾りと小さな手紙が添えてあった。俺に宛てられた手紙だった。
「大人になれたテイルさんへ。
突然消えていなくなってしまってごめんなさい。
側にいる時に話せる内容ではなかったので、今こうやって伝えます。
私は、12歳の時に病気で入院して、そのまま14歳で死にました。
恋人らしい恋人も作ることができないまま、死にました。
そのせいでまともなお葬式もしてもらえませんでした。
そのあと両親はどこかへ行ってしまいました。
私はそんな恨みから、何もしていない3人の女の子を殺しました。
あなたがそのことを知って泣いているのを、私は誰よりも見ていました。
あなたであれば、私をきちんと弔ってくれると、思ったのです。
私があなたと過ごせた時間はとても短かった。
でもその時間で、私はどんなに救われたか。
心の底から幸せだった。できれば生きているうちに出会いたかった。
改めてあなたに感謝します。本当にありがとう。
私が殺してしまった3人の女の子は、もう戻ってきません。
第2の私、第3の私が必ず生まれるでしょう。
私を助けてくれたあなたにお願いがあります。
不本意だと思いますが、私の殺した3人の女の子を、助けてください。
近いうちに、あなたの目の前に現れる、真っ白なチマチョゴリの少女。
その子達3人を、どうか助けてあげてください。
あなたとの子供が産めないとしても、その子達があなたに救われるなら。
私は心置きなく成仏できます。
それが私からのあなたへの願いです。
幸せになってください。
ありがとう。
ごめんね。
さようなら。
大人になれなかった、ミヒより。」
手紙の最後には、白いすみれの押し花が貼り付けられていた。俺は父親が怪訝そうに見てくるのも無視して、下着姿のまま声を上げて泣いた。
※この文章は、2024年10月7日に私の手帳へ殴り書きされていた乱雑な文章(可能な限り原文ママ)である。自戒のため、あえてここに掲載することにした。
☆何があるわけでもなし。何をするわけでもなし。ああなんと美しい失踪日和。
だからと云って岡山とか博多とか目指そうとするのは狂気の沙汰だからせめて京都にしておけ(筆者註:原文は強調カッコでくくられている)
目的地などない。完全なる突発的な逃避行。自分が誰なのかということも忘れてただどこかを目指すのである。さあ今日はどこまで行くのか…
(そうだ京都行こうの軽いノリで鈍行は帰りが地獄である…)
自暴自棄だからこその無計画さ。何かをそれで得られるのならば万々歳。諸手を挙げて喜びたい。
いつかの入水のデモンストレーションを行おうと形原や西浦の海岸を目指すのか?それも良かろう。ああなんとすばらしき片道きっぷの旅。ICカードにチャージはない。(筆者註:5年ほど前、私は自分が生まれてから四半世紀が経過したら入水により自裁を図ろうと計画していた。ただ、その時に死に場所として考えていたのは蒲郡の海ではなく田原の海であった上に、この文章を書けている時点でその計画は遂行されていない。しかも、今回たどり着いた場所は渥美半島ですらない。)
全てをなげすてて 全て記録も破棄して 全て記憶も喪って 残ったものは私のこの身体のみ
ここは一体どこだろう 知らない場所に来た 私はここで朽ちはてる 行旅死亡人となる
我に返ってみると見知らぬ土地を踏んでいた。駅標には「内海」とある。私は八事(筆者註:名古屋市昭和区)を目指していたのではなかったのか?
曰く「知多半島の果て」まで来てしまったらしい。ここまで来ることなど用事がなければないだろう。だが今の私はその用事もわからず案内所のソファで呆然とすることしかできない。
20分歩くと海だという。少しばかり歩くことにした。通りがかったカフェーでソーダ水を。かつてはここも喫煙可能だったのだろう。
海水浴場は釣り人のオアシスとなっていた。浜風に当たりながら気分を落ち着かせることとする。近くに空港があるのでよく旅客機を見た。
しっかり汗ばみ帰路へ。「砂時計の町」とはどのような意味なのか。又ここを訪れた時に確かめてみたい。手書き看板の可愛らしさが印象的だった。
最近私が菜食主義に傾倒していることから気づいたことがあるが、私が見ている限りでは、右翼思想(特に復古主義等の原点に立ち返るような思想)を掲げている団体で、菜食主義の推進を大々的に主張しているところは見たことがない。自然派的主張をしていた参政党を右翼と云うべきなのかは総合的に見ると判断がつかないので、個人的にこの枠からは外すことにしている。
環境保全、動物愛護、健康志向、ただの肉嫌いなど、人によって理由は様々だが、私が見ている限りでは菜食主義を表明している人々は大概左翼な印象が非常に強い。今流行りのSDGsとやらを肯定的に囃し立てるのも、比較的左寄りな団体がほとんどである気がしている。 これも私の偏見だろうが、どうもヴィーガンのような極端な思想にのめり込むのは左翼がほとんどであり、それを感情的に批判するのは(似非)右翼な気がしてならない。
だがよく考えてみると、意外にも菜食主義思想は右翼思想との親和性が強いのではなかろうかと思った。 元来日本人は魚を主な動物性タンパク質として、穀物や野菜を食べて過ごしてきた。それが明治の文明開化の影響で欧米より肉食の文化がもたらされた。そして時は過ぎ、高度経済成長期の頃には、もはや肉食は当たり前のものとして日本人の食生活に定着したという。 この肉食が何の影響で当然のものとされたのか、それはGHQが深く関わっているという説を唱えている論者もいる。その論者曰く、「戦後間もない日本が「アメリカ様様」のような態度を取るしかなかったというのは周知の事実であるが、その時に外国産の家畜肉を輸入するということを約束された事実もあるとして、そこから日本で肉食が一般的になった」というのである。高度経済成長期に完全に肉食が定着したというのも、その年月の流れから見ると理解できる範疇にある。 そういうところから見ていくと、日本の伝統的な食生活を取り戻そうという復古主義でも、ヤルタ・ポツダム体制から抜け出そうという思想でも、更には反グローバリズムの観点からも、準菜食主義(魚を食すため厳密には菜食主義ではない)を民族派の右翼団体が主張しても良いのではないだろうかと私は思ったのである。
繰り返しになるが、私はただの肉嫌いから菜食主義に走った人間であり、残念ながら決してその根底に何かしらの深い思想があるわけでは全くもってない。 ただ、私のこの小さな心がけによって、結果的に食糧難が少しずつ改善され、環境保全に繋がり、日本の伝統的食生活が見直されていくのであるのならば、思想がないこの思想も悪くないのではないかと思う。 もはや思想を左右で分けることがナンセンスになりつつあるこの時代、いわゆる右翼も左翼も無関係にこの国を良くしていくような心がけをできるような世の中になってほしいと強く思っている。
菜食主義を語るのに欠かせない食物、大豆肉。
一時期は通販など限られた場所でのみ販売されていた、知る人ぞ知る食材だった。だが、最近の健康志向ないし環境保全等の風潮から以前よりは入手が格段に容易になったように思える。 今回私は、成城石井にてマルコメ製の大豆肉を入手することができたので、調理レポというのか、食レポというのか、感想などを定期的に(願わくは週に一回ほど)連載していくことにした。
菜食主義者が代替肉を食していると、頻繁に飛んでくる批判がある。それは「菜食を志したのに肉に執着しているとは何事だ」というものである。
(主に日本の)非菜食主義者にとっては「菜食主義=野菜以外のものを食さない」という印象が強いようで、誤りであると知らぬまま「ベジタリアンはベジタブルが由来だから菜食主義なのだ」と語ることもある(実際は「Vegetus」というラテン語の「活気のついた」を意味する単語が由来である)。それゆえ、代替肉がたとえ植物性の原料でできていようとも「菜食とか云いつつ、やはり肉が食いたいのではないか」と意見したくなるのではと推測する。
だが少し考えてみてほしい。「菜食主義を志した人間は肉を主材料とした料理を食べてはいけない」と、誰が決めたのだろうか。そのようなことが根本の思想に組み込まれていたら、餃子や回鍋肉などの中華料理は二度と食べられなくなる。以前も述べたとおり、日本に肉食がもたらされたのは西洋文化の影響である。西洋料理には魚や肉が使われて当然である。その決めごとがあるというのはすなわち、西洋の菜食主義者は西洋料理を食してはならないとなってしまうことに等しい。
故に、「動物の肉に未練があるから」代替肉を食すという考え方は少しばかり誤っているのではないかと私は考える。中にはそのような考えから代替肉を食すような人間もいるだろうが、おそらくは少数かと思われる。
私が個人的に大豆肉を気に入っている理由は大きく2つある。
1.買い置きに便利 大豆肉というのは、その名の通り畑の肉と呼ばれる大豆からできている。調理用に販売される際は乾燥した状態で陳列されており、その都度湯で戻してから調理する。90gの大豆肉が約300gにふくらむという。それ故、賞味期限は明らかに動物の肉よりも長い。先日購入した大豆肉の賞味期限は、半年以上先だった。腐ることをあまり気にすることなく保管ができるのである。私のように「自炊が大好きだが、疲労で料理が一週間ほどできず、いつ冷蔵庫の中身が腐るか心配なことにも疲弊する」というような状況に置かれたことのある人にとっては非常に好ましい食材である。
2.衛生的 肉(特に鶏肉)を切った後、野菜は決して同じ包丁とまな板を使ってはならず、かつ直ちに洗わねばならないという状況は誰しも経験したことがあるだろう。動物の肉は加熱の甘さから食中毒も発生してしまう。だが、大豆肉は湯がいて戻しただけでも十分食べることができる。更に云うと、ブロック型やミンチ型と既に形成されているゆえ、料理法によっては包丁もまな板も使わずに調理ができる。大豆肉は乾物であるので、保管時に湿気さえ気をつけていれば、調理時の寄生虫や細菌などのリスクはほぼないと云えるだろう。
でもお高いんでしょう 大豆肉というのは比較的特殊な食材故に、高価な印象がまとわりついている。だが、今回の私が購入した商品は乾物90gが300gになるブロック型のもので、1袋400円弱だった。私は自発的に動物の肉を自炊用として一切買ったことがないのでわからないが、「黒毛和牛並みに高い」と買えずにいた10年ほど前に比べたら遥かに安くなったと思われる。
以上のことを踏まえて、今後大豆肉を調理した記録をここへ随時掲載していく予定である。
ここまで大豆肉を私は随分と持ち上げてきたが、動物の肉がもたらすエキスにしか出すことのできない味わいもあるというのも十分理解している。動物の肉を出汁代わりに使うという人には、大豆肉が二度手間を生むことは必須であり、それが面倒ならば無理に使うことはない。むしろ、あまりおすすめしない。
一部の過激な菜食主義者には、肉食を続ける人間をひどく軽蔑している故に暴動じみたことを繰り返す人間も存在するが、私は「肉食で暴動を起こさない人間」のほうが正常であり、「価値観を押し付けようとする菜食主義者」のほうが軽蔑に値する人間だと思っている。
主義思想は押し付けられるべきものではない。それは思想を強引に押し付けられたことによって破壊された人々の生活が世界史の中で数え切れないほど存在していることが証明している。良いと思えば自ら進んで選ぶものである。自分で良いと思わなければ、何事も続かないのである。過激な菜食主義者たちにも、それを理解してもらえないだろうか、と強く願う次第である。
私は特別飽き性ではないが、今までにソーシャルメディアを3年以上同名義同アカウントで利用できたことがない。今までにTwitter、Instagram、Facebook、Bluesky、その他今はサービス終了した泡沫サービス諸々、片手で数え切れないくらいのソーシャルメディアに手を出してきたが、一体私は幾つのアカウントを作っては消し、幾つの筆名を使ってきたのだろうかと思う。Twitterに関してはおそらくこの10年余りの間に両手ではとても数え切れないほどのアカウント(同時に複数アカウントを作っていたときも含めると軽く20は超えるだろう)を作っては消してきたという自覚がある。周囲には、迷惑で非常識極まりない奴であると確実に思われていた。実際に「そんなことを繰り返していたら信用がなくなる」と注意されたこともある。だとしても、私はソーシャルメディアという仮想世界に自分の存在があるということがどうにも気色悪く思えてしまう故にアカウントを削除し、その嫌悪感が冷めた頃に平然と戻ってくるのである。控えめに云って、異常者以外の何物でもない。
何故私はこのような軽率な行動を繰り返してしまうのか、自分なりに長く考えてみたがうまく結論は出ない。そもそも私には「友人関係について狭く深くを求めているので、繋がることが容易に出来すぎるソーシャルメディアは向いていない」というのもあるが、それだけが原因ならばまずここまで無駄にTwitterのアカウントを作成することもなかろう。何か他にも原因があるのだろうと思っている。
ソーシャルメディアは繋がることが主な使用目的である故に、自分の投稿は比較的容易に不特定多数から発見される。そして、その投稿が気に入らないならば晒し上げることも安易な気持ちで、しかも今は指一本で行えてしまう。おそらくそんな軽々しさが気に入らないのだろうとは思う。
だとしても私がソーシャルメディアを使ってしまうのは、ぶっちゃけその軽々しさの利便性を完全には否定できないからである。 個人ホームページはなんだかんだで、ソーシャルメディアにしか触れてきていない人々には「面倒くさい」ものであり、真似しようと思って自分で立ち上げるのにもソーシャルメディアよりは明らかにハードルが高いような気がしている。 繋がることが容易にできるソーシャルメディアなら、何もかもが個人ホームページよりも「気楽」であるから、指先一つで容易に様々な人と繋がることができる。だが、私はそんな簡単に出来て簡単に壊れるような繋がりはあまりよろしいものではないと思っている。それ故長々とくどい文章を書いて、見たい人だけ見られるようにURLを教え、狭い関係を作っているのである。結果的に、基本的にはここを見ている人は私を現実世界でしか知らない人ばかりであると考えている。
ソーシャルメディアという概念のない時代のインターネットは、ここまで荒れ果てた場所ではなかったと確信を持って云える。それは知識がなければ訪れることすらも許されない、限られた人間だけの場所だった。それがスマートフォンの普及と通信環境の整備のおかげで誰も彼も24時間365日インターネットの世界を訪れ、一日に何時間も、時間が許せば無制限にふらふらと放浪をするようになった。
訪問者の低年齢化も甚だしい。私は正直、自分の経験からも中学生以下の人間にインターネット環境は絶対に与えるべきではないと思う。義務教育でインターネットの恐ろしさというものをしっかり教えねば、それとは知らずに暴力団事務所に飛び込むに等しい自殺行為を行うような、危なっかしさがはっきりと目に見える。これについては別の機会に改めて詳しく述べるが、日本民族は性善説の呪縛から逃れられている人間ばかりではない。無知な子供こそ、「こんなこと云うけどきっとこの人は良い人だから」と疑うことを知らないのである。
であるからして、情報収集は無論のこと情報発信においても、以前のインターネットの世界のようになるべく知識のない人間には極めて困難なものにするべきではないかと私は思っている。私はそのような思想が根底にあるゆえ、ソーシャルメディアがいくら発展しようとも、個人サイトを主義主張としても運営し続けているのである。
昨今の文章や題名から察せる人間もいるかと思うが、私は個人的に胸を潰すために使う用具は晒が好みである。
幾つかナベシャツ(註:大きな胸を平らにする、特殊な肌着。トランスジェンダー以外にも男装趣味者が利用することがある)を買って使ってみたこともあるが、いずれにしても共通して生じた感想は「暑い」「苦しい」「購入は博打」「高価すぎる」だった。
「晒は身体に巻くもので締め付けすぎる傾向にあり、身体に良くないのでナベシャツが良い」という主張は、正直なところナベシャツ製造者の広めた陰謀論ではなかろうかという気がしてならない。ナベシャツにしろ、晒にしろ、物理的に身体を締め付けるのは変わらないのだが、何故ナベシャツは良くて晒は駄目になるのかが私にはわからない。
ナベシャツは基本的に高価である。私の普段着も安いものではないが、肌着に普段着一着分の値段をかけ、かつ常用のため何着も購入するというのは私にはできない。いざ注文して待ち、届いて着用した時「合わない」となる可能性もまあまあな確率で存在している。返品でサイズ交換するというサービスの店舗もあったが、そんなことをするくらいなら最初からサイズの合ったものを購入したいという気持ちが非常に強い。その点晒はただの長い布なので、自分で胸の潰れ具合を巻くたびに調節できる。ナベシャツのサイズ調整は不可能か、できても微々たるものである。
「晒こそ巻くのが面倒」だと云われそうだが、胸を潰すだけに使うのならば半反の晒で十分である(これは私が小柄で細身だからかもしれないが……)。慣れれば人の力を借りずとも30秒もあれば適切に巻くことができるようになる。
晒はただの長い布(二回目)なので、その使用方法も幅広い。布巾にしようが、雑巾にしようが、はたまた機械いじりのウエスにしようが、靴磨きの布にしようが、何もおかしなことはない。云うならば今流行りのSDGsとやらに二項目ほど貢献できるのではなかろうか(知らん)。
ただし、晒は緊急時の微調整が困難であることが短所である。晒はただの長い布(まだ云うか)なので、外出先で巻き直したいと思ったときには必然的にお手洗いの個室を利用することになるだろうが、正直狭いだろうし衛生面でもよろしくないとは考えている。
だとしても、ナベシャツが化繊でできていたとしても基本的に晒はただの綿100%の長い布(しつこい)なので、肌に触れる部分は必ず天然素材となる。したがって、ナベシャツよりかは蒸れにくいと云える。経験則上、ナベシャツを着て真夏に外出をした時に地獄を見なかった日はない。
晒を試しに買ってみて合わなくとも再利用すればきちんと物として消費できるので、胸の件で悩んでいるそこのトランス男の諸君も今すぐアマゾンか何かでポチると良いかもしれない。私が購入しているのは半反で1300円ほどのものである。もう少し安いものも存在するので探してみるとよいだろう。ところで半反とはどのような長さかと云われると、正直私にもはっきりと分からない。おそらく5mくらいではあると思われる。晒を広げた時、一反木綿がいかに長ったらしい奴なのかが明らかになることであろう。
結語:「晒はただの綿100%の長い布」(いい加減にしろ)
私は幼少期から極度の肉嫌いであり、食事で肉のみを避けて食べているのを幾度も怒られるような人間であった。今、そんな私は無意識のうちに菜食主義的な食生活を送っていることに気づいたが、そこに何かしらの思想があるわけでは一切なく、ただ単に偏食家であることがそのような生活をすることの要因となっている。
肉は嫌いであるが、牛乳や卵を避けようと思ったことはない。更に云うのならば魚介類は大の好物である。このような人間を菜食主義の用語では「ペスコ・ベジタリアン」ないし「ペスクタリアン」というようである。あえて用語をつけて呼ぶのならば私は「ペスクタリアン」という分類に属するのかもしれない。 ただ、食べようと思えば鶏の肉は食べないこともない私である。そうするとこれまた用語があるようで、「ポーヨー・ベジタリアン」という分類になるという。
私は全くの無意識のうちに「哺乳類の肉を避けているのではないか」、と人から指摘されたことがある。菜食主義に走る人間の思想として「同族(同類?)は食物ではない」というものがあり、比較的スピリチュアルな傾向の強い人間に多いと云う。繰り返すが、私は自分には菜食主義に走ることに何もそういった考えはない。
ヒトラーは菜食主義だったという都市伝説がある。曰く、「ゾウやサイは草しか食わんのにあんな巨体を持っている」という理論だと云うが、生物学的には否定されるものである。その証拠に、猿も雑食の生き物である。 私のように何も考えずに菜食主義的な生活を送る人間がいる一方で、ヴィーガンという厳格な菜食主義者には動物愛護の観点からその生活を送るという極めて思想の強い人々も多い。いや、動物愛護の観点を気にせずにヴィーガンまで至る人間は皆無ではなかろうか。そんな思いがなければ、本革の靴を買わないという次元までは至れなかろう。耐久力で動物の皮革に勝る合成皮革は現段階で地球上には存在しない。
しかし、欧米文化の輸入で肉食をするようになった日本民族が欧米文化の影響で菜食を志すとは盛大な皮肉に思える。日本民族は元来「ペスクタリアン」のようなものではなかったのか。精進料理の概念すらも欧米に輸入されていると云うから、もうこの現代社会は私の理解の範疇にはないのかもしれない。
とりあえず、私に「貴様には動物性タンパクが足りない」と云ってTENGA EGGをパックでよこすのはやめていただきたい。そう、数日前にパソコンを開きニヤニヤした顔をしてネットショッピングをしていた小田島、お前に命令しているのだ。あの後美味しくいただくはめになった。お前は私に「大変美味しゅうございました」と満面の笑みで云わせたいのか、小田島よ。お前は何を考えているんだ。今後も続けてくれたまえ。
このまま以前と同じ文章を再掲したところで面白くないので、もう少し語ることにする。
私は自発的に動物性蛋白を調理しようと思って購入することは一切ない。単純に動物性蛋白は植物性蛋白に比べて腐敗が早く、後処理が非常に面倒だからである。他人に命令されれば購入することもある。拷問を受けてまで拒否することはない。 豚肉や牛肉の焼ける臭いがどうにも私にとっては悪臭にしか感じられないが、その一方で鶏の唐揚げは好きであるというので、「よくわからない偏食だ」と人から云われて久しい。 揚げ物の中でも、ヤンニョムチキンほど美味しいものはないと思っている。異論は認めない。
私は、女体を持って生まれ女として育てられ、女として社会的に認められている、性自認が男の人間である。あえて今流行りの云い方をするならば、いわゆる「トランスジェンダー男性」というものである。トランスジェンダーと聞くと「性同一性障害」の印象があまりにも強く、トランスであるならば何が何でも性転換せねばならないという世間ないし当事者の思い込みも強い。
そんな中私は、幼少期よりトランスジェンダー男性であるということを自認しながらも、約15年悩んで「今のままでいる」、もっと云うならば「男にはならないし、なりたくない」という選択をようやくすることができた。何故私はそのような選択をしたのか、以下いつものように長々と語っていくことにする。
確かに私は性自認が男である。だが、今の科学技術では生物学的な「性転換」は到底不可能であり、手術は法的に自分の認識する性別を認めてもらうための手段以外の何物でもない。もし私が身体にメスを入れるという選択をしたとしても、その結果生まれるのは「男の身体」ではなく、「胸のない、機能する穴が機能しない棒になった女体」である。何をしようが、女体は女体のままでしかいられないのである。
故に、手術にかかる費用ないし身体的及び精神的負担と、手術の結果による自らの覚える解放感の二つを天秤にかけた時、前者が重く沈み込むのは目に見えているのである。ナベシャツで胸を潰して呼吸困難になることと胸の膨らみがあることに対する苦しさのどちらが強いか、これが圧倒的に前者ならば容易に想像がつくことであろう。
そもそも、私には法的に性別を変えることのメリットが一切ない。男として女を愛し結婚するという欲はないからである。更に云うならば、男湯に入りたいとも男性化粧室を利用したいとも一切思ったことがない。中途半端に身体を変えた故に公衆浴場へ二度と行けなくなるくらいならば、ホルモン治療すらも私には不要であり、無駄であり、無意味である。
確かに「女性特有の月に一度の体調不良」は滅びてほしいと私も思っている。自分が女であることを強制的に突き付けられることによっても、私は精神に異常をきたすからである。だが、そんな「月イチ体調不良」も未来永劫続くものではない。それは加齢により終わるものであると分かっている、すなわち私にも終わりは必ず見えているのである。その終わると分かっているものを大金を叩いて通常より早く終わらせることに意味があるのかどうか、私は長い目で見ると怪しいのではないかと思うようになった。
今までの話をまとめると、「社会的に認められようが何だろうが、自分は自分である」ということである。何をやったところで生物学的な性別など変えることはできない、作り物の身体で認められたところで微塵も嬉しくない、故に社会的に認められることはもう諦めた。だが自分が自分のことを男だと思えば、男なのだ。自分の中だけでは。私はそれで良いということにした。
であるからして、私は「女体を持った男」、すなわち「性別:自称おなべ」であるということになる。それの何が悪いのか。自分が満足するように自分のあり方を決めて、幸せならそれでいいじゃないか。
自分の人生は自分で決めねばならない。他人があれこれ云うことに惑わされて人生が狂ったことは幾度もある。だからこそ、自分の生き方というものを自分で決めたいと思い、今回このような内容を述べた次第である。
私は今まで「辛くなったときの依存先は多ければ多いほど良い」と思い、それを人に伝えてきた。すると人は酒に溺れ煙草を狂ったように呑み始めるようになった。そんな光景を見てしまった私は、果たしてその考えは正しいのだろうかと疑念が生じてきた。 以前も述べたように、世の中にある嗜好品は程度は違えどある程度の依存性があり、それと同時に依存症には無限に種類があるものだと思っている。そしてそれら依存症は患う数が多いほど深刻な事態を招くという事例を私は見てきている。 最初に私は「依存先は多いほど良い」という考えを提示した、自分の見てきた事例とこの考えを組み合わせたそれ即ち「依存症の深刻度が高いほど人は幸せである」という主張に成り果てるのではなかろうか。 ――誰の目にも明らかなパラドクスである。
おそらく語弊のない云い方をすれば、このパラドクスから抜け出せるのであろう。 本来私がこの考えで何を主張したかったのかと云うと、「頼れる人間は多いと楽になれる可能性が高くなる」ということであった。それを少し濁した表現が、「辛いときに依存できる先が多いと良い」だったのだが、依存という表現からこれを伝えられた人間は化学物質の過剰摂取へ走ってしまったのであろう。
私は彼女へ謝らねばならない。
ご存知の通り、私は酒も煙草もやる人間である。見た目から全く想像ができない上に印象も皆無らしいが、本数が多いという意味ではなく非常に重たい煙草を吸うという意味での――本数にしてみると多いときでようやく2桁になる――ヘビースモーカーである。 私は以前、 「煙草は毎日吸っていてもいいような風潮があるが、酒を毎日飲んでいる奴は危ない奴にしか見えないのは何故だろうか」 という問いを投げかけられたことがある。 この問いに対する解答でふさわしいのは、 「煙草を吸う人間は10人中10人がニコチン依存症だという前提で思われているから」 ではなかろうか。 昭和の時代であれば、父親が毎日晩酌をしている光景も多かったのだろう。若者のアルコール離れという言葉があるように、そんな時代ももう昔なのだろうと思う。とは云え、全世界がこぞって「アルコールから離れましょう」というメッセージを発しているということはない。 ただし、煙草になると話は別である。世界保健機関がニコチンの有毒性を訴えるとともに、それがあたかも何の間違いもないと盲信して狂信的に「どのようなものであれ煙草は害悪、この世から喫煙者を抹殺しろ」と全世界がメッセージを発している。その証拠に、日本の精神科や心療内科には、大概禁煙外来の案内が貼ってある。 だが、そこまで煙草というものは害悪なのだろうか。酒を飲みすぎて人を殴る輩はいくらでもいるし、飲酒運転で人を殺すような輩も数知れないが、煙草を吸いすぎてそういった暴挙に至る人間がテレビで報道されたところを私はこの20年余りの人生の間でほとんど見たことがない。仮に見たことがあると云っても、ホテルニュージャパンの火災原因が客の吸っていた煙草の火の不始末という件くらいで、その件でも客の行為ではなくホテル経営者の杜撰さがテレビ特集では強く批判されている。 これを見るに、どちらが害悪なのかは、明確なのではなかろうか。
論点がずれてしまった。 私はこの文章で酒呑みを糾弾したいわけではない。現に私の通称は「まあまあな酒豪」である故に、自分の首も締めかねないからである。 だとしても、酒を飲み過ぎる奴も、煙草を吸い過ぎる奴も、自他共にかどうかは置いておいて害悪なのは変わらない。煙草のポイ捨てをしたり、火をきちんと消さずに立ち去るような輩はこの際論じるまでもない。 何が云いたいかというと、何事も節度を持ってやらねばならぬということである。自己の制御は己で行わねばならぬ。 よって、私は世間一般で云う「酒は少量ならば良薬」「煙草は百害あって一利なし」ではなく、「酒も煙草も自己を制御できる程度に嗜め」と訴えていきたい。
酒や煙草以外でも、この世のどんな嗜好品も依存性があると思っているが、どのようなものでもいざとなれば嗜みを止められるくらいにしておくのが幸せである。完全禁煙で喫煙具が没収されるような精神科病棟にいた時、「シャワー室で煙草を吸っている」という話を武勇伝じみた口調で聞かされてひどく呆れた私は、強くそれを思っている。
私は一定数「文字が流れる動画を好む人種」がいるのを知っているが、私にとって長文をだらだらと動画にされることほど苦痛なことはない。動画の解説漫画も然りである。作り手の心地よいペースが私にとって心地よかったことがない故、自分のペースで読める活字のほうが断然好きである。 そもそもインターネットにおける動画メディアほど玉石混交なものはないと思っており、きちんとした出版会社を通した書籍、新聞のほうが比較的信頼性が高いと思っている。従って私は、ネットが真実だと信じ込んでいるような人種に対する理解は一切ない。だからといってマスコミ報道も鵜呑みにはしない。 いかなる人間でも環境さえ整っていれば情報発信が出来るようになったこの時代だからこそ、デマゴギーが蔓延るのだと思ったが、関東大震災のような例もあるから一概には云えない。情報を見たら一度冷静になって考える癖をつけたいものである。
結局のところ、私にとってインターネットの情報は単なる記憶の補助にしかならず、理路整然と情報がまとめ上げられた紙の書籍ないし雑誌、新聞が知識源であることには変わらない。その書籍もスマートフォンのおかげでめっきり読まなくなり、今では一日に二冊は本を読んでいたことが嘘のようである。 月に二冊読み切れば良い方であり、一ヶ月に一冊も読まなくなることが多くなってしまった私は、そろそろスマートフォンを手放したく思っている。もっと本が読みたい。この文を綴っている間にも、数ページは読めたかも知れぬ。
※自分用の書き殴り故、文体の乱れはご容赦いただきたい。
→楽しくなくても生きるのだ
そんなことを考えていると最終的には「全てにおいて楽しいという感情を抱かねば生きてはならない」という発想に陥るのではないか?
→とりあえず苦しいのは分かった
原因があろうがなかろうが苦しいのは同じだ。どうにかするよりまず苦しさを認めるべし。
→諦めの心を持つことを覚えよ
時には「どうにもならぬ時」がある。それは時間が解決することを過去からお前は学んでいるはずである。何故ならこうして「何で苦しんでいるのかが分からない」という時を幾度も乗り越えた上で今のお前があるのだから。
→お前は「何かのために」生きている
何かというのは何であろうが生きていてよいのだ。無駄に死に対してエネルギーを使う必要はない。そこにエネルギーを使う暇があるのならば生きよ。生きる為にエネルギは作られており、生きる為に我々は呼吸をして水分を取り、食事をとっているのだ。エネルギーが尽き果て、かつ身体にそれを作り出す能力も失われれば人は自然に死ぬ。それを待ってから死ぬのであっても遅くない。
人はあらゆる手段で人を見下そうとする。例えば、どんなに普段高尚な事を発言していたとしても、煽られた時に自分の伴侶を楯にして反撃する時点で、その人間の高尚さは失われると思っている。 「俺には彼女がいる」と云うことを自らの優位性の主張に使っている人間を某所で見たが、私には正直その光景が非常に滑稽かつ愚鈍、そして無意味に見えた。
そもそも、恋人が居ることの何が優位性の現れと云えるのか。恋人が居ることは将来結婚をして子孫を残す可能性が少なからず存在することを表現したうえで「恋人のいないお前よりは生存価値がある」と表明したいのだろうが、正直私には全く理解のできない範疇である。
私は生まれてから、恋愛感情と云うものをあまりはっきりとは理解していない。当然この人生の中で私には恋愛関係らしき人間関係が出来たこともある。ただし「それによって幸せだったか、世の人が抱く結婚願望と云うものが理解できたか」と云われると正直なところ全く分からなかったと云うのが感想である。
私は個人的に、異性間における恋愛とは「人間同士が結ばれ婚姻に至り、やがて子孫を残すこと」への始めの段階だと思っている。子孫を残すことに対して強く否定的な私としては、人間はこんなむず痒く奇怪な人間関係を何故に有難るのかと不思議に思った次第である。
この様な価値観に従って生きている私である故に、「俺には彼女がいる」等と突然見知らぬ男に優位性を主張されたところで、だから何だという答えしか出てこないのである。
†
今の自論の着地点が見つからないが、このまま語り続けてしまうと「人間の生き死にに対し何故に感情が揺れ動くのか」等と今の論から著しく跳躍した論を広げかねぬので、この辺りで筆を置くこととする。
虚無と表現するにはふさわしくないが、虚無感に近いものを感じる絶望感を覚えている。何によって引き起こされているかは今回実に明確、自らが生きていることによって全ての事象を感じ取れることにある。全ての現象を五感によって感じることで、なんとも表現できぬ虚しさに襲われるのである。
要点として挙げるべき事項は「全てのものには必ず終わりがある」ということである。あれだけ愛してやまない私の心の伴侶、金の鳩ことショートピースも10分ほどで燃え尽きてしまう。かたちあるものは全て壊れる。形なきものもいつかは終わりを迎える。人間はいつか死に絶えていく。そう思えば最早何もかもが意味をなさぬものに思えてならない。それが虚無感という感情の正体である。いつか何もかも終わってしまうのならば、それが予定よりも少し早くに終わったところで何ら問題はないように思える。
恐らく、私の希死念慮はそこから由来するものなのであろう。終わりのわからないものが怖いならば、自ら終わりを決めてしまえば良い。そういった思想が根底には確かに存在している。
前から話していることだが、私にはソーシャルメディアはあまり向いていないようである。
元来より私は頻繁に虚無感を訴える傾向にあるが、そこから気分が落ちていくことはほとんど無い。なぜなら「虚無」とは「虚ろで何も無い」の意であり、即ち虚無感を覚えるとは何の感情も生まれない状況である故。気分が落ちるときは気分が落ちる感覚から暗い感情を抱いている故に、その時点で「虚無」とは異なる状況である。要約するならば、中庸とは零であり、気分の沈みは負であり、気分の浮き上がりは正である。此の表現を用いるならば、零は零でもその数値の概念すら存在しないのが虚無である。虚無はただ零と同意義に扱って良いものではない。
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛身」ではないが、宗教を考えた私は常にどのようにすれば自らが正しい法を見つけ悟ることができるのかと考えていた。私と基督教の蜜月期も確かに存在したが、その時期の出来事で明確に覚えているのは「如何にして棄教すべきかの考察を片手で数え切れぬほど歳を重ねて考えた」ということが非常に大きい。今まで私は無駄な年月を過ごしてきたのだろうかとも考えたが、様々な世界を見ていくという意味では何ら無意味な時間ではなかったと、今は思っている。
日本において何世紀にも渡って信奉されている宗教、ここでは神道ないし仏教ほど長く続いているものを指す、を自らの生活に取り入れることは、日本の伝統的な暦における行事に沿って生きることに繋がっていくが、私はそれをできることが素晴らしいことだと思っている。節分、桃の節句、春の彼岸、等々。これら全て素晴らしい行事である。日本人として日本の文化を否定する事のいかに精神的苦痛が大きいか。所詮基督教も地球規模で見れば生活文化が完全に異なる異国の教え、日本人の文化に溶け込むことは絶対にできない。日本人はただの商業主義的行事として扱ってはいるが、信じてもいない異教の神の誕生を祝う行為ほど無意味な行為はないだろう。
私は自他ともに認めるメンヘラである。ただしその思考回路は竹を割ったようにすっきりしており、何か失敗をしたところですぐ切り替えを行って次へ進む。人に責められても「あの人はそう思うんだろう、あの人の中だけで」と割り切る。終わったことをくよくよネガティブに考えたところで時間の無駄だからである。それと同時に、自分と真逆の思考回路、即ち自虐的に自分を責めてばかりの人は非常に苦手である。こんな事を云ってはいけないのだろうが、はっきり云って彼らは要望が非常に曖昧で鬱陶しいのである。恐らくは察して共感してほしいんだろうとは思うが、共感を求めるより根本を解決しろと強く思ってしまうのである。
「こんな思考回路の奴、どこがメンヘラなんだ」と思われるだろうが、私がメンヘラと云われる所以は精神力の乏しさ故である。それは体力が無いのと似ている。いや、精神力をうまく自己制御できないと云ったほうが正しいのかもしれない。私の精神力は原子力の如く不安定なのである。丁寧に扱わねば壊れてしまうのである。チェレンコフの光と共に崩壊し始めるのである(不可解な発言)。
もう少し分かりやすく正確な説明をするならば、私は燃料残量計のない自動車のような存在であろう。情けないことかもしれないが、私は心身ともに自分の限界をあまり分かっていない。それ故に、人から「無理に元気なふりをしているように見える」と云われることが多々ある。そんな事は気の所為だと余裕な顔をしていたかと思いきや、突然電源が落とされたかのように斃れるのが私である。
こういう私に足りないのは、携帯電話で云う「省電力モード」なのであろう。常に全速力で動くのは誰であっても疲れるものである。マラソン大会で100m走のような速度を持って走り抜けたら誰であっても序盤で疲れ果ててしまう。そういうことだから、私はいい加減自分の体力の配分を考えるべきだと思っている。
ここ最近頻繁に仕事を休むなどした時、私は精神を病んでいる故に現実逃避がしたいのではなく、ただ単純に体調が悪くて療養したいのだということに気がついた。私の使う「風邪からの病み上がり」と云う表現が間違っており、身体は病み真っ盛り中である。自分の体調不良に関する感覚が鈍すぎるのは危険極まりない。まるで燃料の残量が分からない自動車に乗っている心地である。たとえ燃料メータがなくとも、定期的に元気の補給をせねばならぬ。
†
ところで、私は常日頃から希死念慮を抱えているが、私が死を望む理由は自責の念や厭世主義からでは全くない。今幸せだから今のうちに終わりたい、という考えでもない。幸せでつらいことなど何も無い、だけど死にたいのである。死を経験してみたいという狂気じみた感情にも似ている。自覚がないだけでつらいことを経験しているから死にたいのだと人は云うが、私には理解できない。そもそも人は日常的に死を考える事自体、常とは異なるという言葉の示す通りの意での異常だという。「絶望から死にたい」ではなく「好奇心から死んでみたい」という感情を理解してくれた人間はいまだかつて存在しない。
やっぱりね、俺が死ぬときはね、自分の好きなものを思いながら穏やかに死にたいんだよ。マッチ売りの少女じゃないけどな、その好きなものが幻覚であってもいいから、幸せな夢を観ながら満面の笑みで死にたいんだよな。
†
ふと頭をよぎった過去の記憶。中学生時代に「豪放磊落」という単語を知り、新年の抱負の一文字として「磊」と筆文字で書き、同級生の作品とともに掲示され教師にも「何と読むのか」と云われた記憶。国語の時間に学級内で退屈だという声が広がる中、唯一自分だけに漢文ブームが到来し、礼記(と記憶している)の「斃れて後已む」を座右の銘とし始めたのもこの頃だったような気がしている。こういったものへ興味を持ち始めるのに特段早いということはないが、余りにも周りの理解が薄かったのが災いし、今の浅学さに至る。この時点でもう少し真面目に相手をしてくれる人間がいてほしかったが、当時はインターネットも今ほど普及していなかった。
私の漢詩に対する能力は、法則を本を読みながら覚え字引を頼りに詠もうとするものの一つの詩を読んで力尽き、その後何も覚えていない程度の能力である。関連したこととして、過去に地域の詩吟サークルにも突っ込んでいったこともあるが、平日昼間の開催故参加は非常に困難であった。ここまでやればたいしたものだと一般的な人間は云うだろうが、その界隈から見たら何も知らないのと同じような知識量である。こういう趣味嗜好の人ともっと早くに知り合うことができたのならば、世界は広がったのかもしれない。
煙草の箱を眺める。濃紺と金の補色じみた色合いが絶妙に美しい。今夜も金の鳩と共に安らう。寒空の下紫煙を立ち昇らせる時、私は恍惚としている。星が綺麗だと、伴侶なる金の鳩に囁くのである。
ただ追善供養で塔婆を建てただけなのに泣いている。 塔婆を建てたから泣いているのかもしれない。 もはや怪文書でしかないと思われた前回のような殴り書きの内容を、寺院の御住職様に苦しくも理解していただけたのは涙が止まらぬ思いだった。彼はたった独りで逃げ、たった独りで息絶え、親族にも拒絶された。それが犯罪行為に対する報いなのかもしれないが、せめて人間として、独りでこのまま忘れられていくことだけからは救いたいと私は考えてしまったのである。これは誰から見ても偽善なのだろうか。それでも構わない、私は私のできることをするのみである。
様々な場所に書いた殴り書きを無作為に集めたもの。
†
犯罪者に感情移入して悲しみを覚えることなど倫理観の歪みが甚だしい故禁忌なのだろうが、それによって私は明確な喪失感と虚無感を覚えている。昨今の報道を見ていれば察する人も居るだろうから誰ということは明確にしないが、今私が哀れみを感じずにはいられない犯罪者がこの世に存在している。
†
唯一無二の親友を失ったときのような喪失感。
道端に放置された誰のものなのかわからない吐瀉物を見つめるときのような虚ろな目。
何のつながりもないが長く想い続けていた身として私は孤独に息絶えた彼を弔うべきなのだろうか。
私は人としてあるまじき行為をしようとしているのかもしれない。だとしても彼も一人の人間として生きた存在、そんな彼を弔うということは誰が間違っていると云えるのだろうか。誰もやりたがらぬのならば私がそれを引き受けたい。偽善だろうが自己満足だろうが何を云われてもいい。私は私のできることをしているだけだ。それで彼が何処かで喜べると信じて、私は心から彼を弔いたいと思う。
†
「塔婆を建てる追善供養って……全く繋がりのない人のこともしていいんですか?」 「いいですよ、基本的には親族先祖代々の霊を供養する方が多いですが、有縁無縁構わずしていただけますから。名前さえ分かっているのならば可能ですよ」 「ありがとうございます、ただ、それが……」
震える手で用紙に書かれた「桐島聡」の文字。
御住職様は怒りも呆れもせず、ただ穏やかな笑みを浮かべて私を見つめていた。私が訳を話すと、「どのように生きたかということ以前に、一人の人間として故人を弔うことは大切ですから」と御住職様は微笑んだ。涙が止まらなかった。
†
自分の経歴上全てを偽らざるを得なかった故、極限まで追い詰められた状況で振り絞った「最期は本名で迎えたい」という彼の人間としての願いが、私の小さな力によって少しでも叶えられるのならば、私は心の底から幸福を覚えることであろう。
†
私は元来より、人の生命が脅かされるような事態に激しく感情が揺れ動かされる人間である。それが歪みきった結果、今の私のNecrophilicでThanatophilicなTaphephiliaが生まれているのであろう。私以外の人間は今私が何を云わんとしているのかわからないと思うだろうが、それで構わない。それ故に理解しようとしなくても、それで構わない。ただの独り言を壁に打ち付けているからである。だとしても、屍体など平常時では出会えるわけがない。それ故私は擬似的な行為を行うことにより自分の (文章はここで途切れている)
※今回の文章は個人の解釈によっては非常に残虐な文章にとれる場合があるため、特に「屍姦」という単語に嫌悪感を抱く方は無視していただいて構わない。
最近調子がすこぶる悪い。 順調だった仕事も、このまま次第にフェードアウトしていくのではないかと思うくらいに調子が悪い。 このまま私は消えて無くなってしまうのだろうか、そのような錯覚に襲われつつある。別にそうなろうが私は一向に構わないが、きっと周りがさぞかし困ることだろう。 最早なにかに救いを求めることも虚しさしかない。 苦しみの感情すら生まれない。 何の感情も抱けない。 私はこのまま塵芥として消えていくのだ。 この私の存在すらが鬱陶しいのならば、早く焼却してくれても構わない。
「どうした?何に落ち込んでいるんだ」
相棒の存在も、今の私には何の慰めにもならない。慰めになるどころか、煩わしさすら感じる。 もう何もかも壊れてしまえばいい。壊してしまえばいい。殺めてしまえばいい。このいつも屈託のない笑顔を浮かべる顔面を、ぐしゃぐしゃにしてしまえ。
「なあ、どうしたんだよ、いつものお前らしくない。いつもだったらお前は俺に――」
私は傍らに置いてあった鉄扇を手に固く握る。そして立ち上がり、
「おい、落ち着け、俺がなにかしたのか……?」
相棒が困惑した顔を見せるのも構わず、
「待てって、なあ、お前――」
……鈍い音がした。 相棒は仰向けに倒れ込んだが、もう一度殴ろうかと思う。一度でなく、何度も殴ろうと思う。力を込めて握った鉄扇に赤々とした相棒の体液がこびり着いていることに気づくのは、殴り始めてしばらく経ってからだった。
二発目。
三発目。
四発目。
五発目。
……あとはもう覚えていない。
「正気か……」
その弱々しい一言を血反吐と共に吐いた後、相棒は静かになった。そして、再びその口を自分から動かすことはなかった。
漲るこの禍々しい感情を、ぶつける場所に迷った。 迷わなくても、目の前にぶつけられる場所はあった。
私は血で塗れた相棒の口内を、そのまま激しく犯した。口内どころではなく、咽喉の奥まで、深く深く犯した。相棒の口内はこの時まだ暖かく、脈々と体液を流していた。私の透明な体液と相棒の真っ赤な体液が、私の腰の動きと共にぐちゅぐちゅと音を立てて淫らに混ざり合う。
ああ、ああ、私の唯一無二の相棒だったお前はみるみるうちに冷たくなっていく。
既に昂ぶりは最高潮まで達しようとしていた。このまま冷たくなった相棒と共に、私も逝きたい。
ああ、もう、逝ってしまう、ああッ――
私は相棒の喉奥に精を放ち、その陽根を挿し入れたまま、意識を喪失した。
†
「なあ、おい、大丈夫か、起きろ、起きれるか」
私が殺めたはずの相棒の声が聞こえる。果たして私は何を殺めてしまったのだろうかと考えつつ、ぼんやりしながら目を覚ます。……なあ、あんた、生きてるのか?
「何を云ってるんだ。いつも通りお前と寝てたんだよ。お前、よほど酷い悪夢でも見ていたんじゃないのか?すげえうなされてたぜ」
酷い夢。魔が差して私が相棒を殺す夢だった。
「まあ、そんなことも俺と一緒なら平気なこった。今日もたくさん慰めてやろう。さあ、俺と乱れよう……」
日常。私が相棒と過ごせる幸せな日常だった。 今のこの状況こそが夢なのだろうか。私は無意識のうちに相棒を固く抱きしめていた、あの時鉄扇を握りしめていた時の手よりも固く解けることのない腕で……。
苦悩に満ち溢れた人生である。
自らの受持している理論がどんなに素晴らしいものであると自負していたとしても、それを批評することのできる程度の理解を持つ人間のなんと少ないことか。
批判されることもなく、評価されることもない理論故にそれがどの程度まで高みに近づいているかの客観的意見が皆無であることから、私は実際高尚な理論を受持しているようなことは一切なく、小児のような稚拙な理論しか持ち合わせていない人間なのかもしれぬという疑念すら生じている。批評する価値も存在しないような幼稚な理論だと、指摘すらされぬのである。
ここまで自らを卑下するのもナンセンスだと云って正反対に自らの理論を誇張してまで高尚なものだと主張するのもナルシシズムの極みであるから、第三者の評価を受けて自らの理論の持つ価値乃至程度を判断したいと熱望してはいるが、未だかつてそのような評価を明確に受けたことを私は記憶していない。ただ単純な感想として「難解」「不可解」「理解の放棄」という半ば拒否にも思える反応を評価として認識してもよいのならば、私の理論は一般的な思考を持つ若年者にとっては受け入れがたいものなのであろうと考えられる。
以前も主張したことがあるが、私は自他ともに認める異端者である。天才と狂人は紙一重と云うが、私はどちらかと云わなくても間違いなく狂人である。受け入れがたいと思われるその理論は、狂人の虚言故に受け入れられることはないのである。これが完全なる理解を持った人間からの評価を受けることがあれば、それは狂人の虚言から秀才の至言へと変わるのであろうが、私がこの世界で生存しているうちは一生涯、狂人の虚言として取り扱われることであろう。
気の狂った落書きを見つけたので、ここに文章として磔、もとい貼り付けておく。
天草四郎の乱か??めちゃ語呂悪いけど 以下、虚言……
「クリスマスを粉砕するなら廃神毀耶蘇の精神で破折する気でやりやがれ!!」
「折伏大行進と題してデモをやりやがれ!!!」(?!!)
「死なう団事件みたいに日蓮主義が暴走して割腹のデモンストレーションくらい行え!!!」
「三位一体をぶっ壊す!!(それ某新興宗教になる気が……)」
【解説:クリスマスになると毎年粉砕デモが行われるのを耳にするが、行う理由がリア充への僻み故に私は「しょうもない」と呆れ果てた末、本来のクリスマス粉砕デモの理由としてふさわしいものを考えた結果、この文章が出来上がったのである。ちなみにここで云う某新興宗教とはエホバの証人のことである。】
†
時速どれくらいで上空のどれくらいの高さを飛んでいるのか?空飛ぶソリはジュラルミン製か?! 冷静に考えて凍傷まっしぐらである。ご老体に鞭打つってレベルじゃないぞ。ああ建造物侵入。 大韓航空機みたいにロシアの上空飛んでたらアメリカの爆撃機と間違われて撃ち落とされたりしないんだろうか。今まさにドンパチ中なのであり得ると思う。サンタクロースが迎撃してきたら狂気の沙汰である。北欧にこれ以上喧嘩を売る気か!
【註釈:サンタクロースの原型はロシア正教のセイント・ニコラウス故にロシアで領空侵犯しても侵犯にはあたらないという指摘を頂いた。賢い考えである。】
題名どおり。著作権など知らない。多分寝ぼけて私が殴り書きしたものだと思われる。書いた記憶はない。あまりにも意味不明すぎるからここで晒しものにする。
†
【表】
日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ by 浅井なんとか(昭衞、しょうえいと読むらしい)
・念仏ばかりブツブツ唱えていると呪われるらしい。 (知らんけど) ・聖書なんか読んでると不幸になるらしい。 (随分昔にあった学会員が云ってた) ・今の学会のご本尊は偽物らしい。 (日蓮正宗の寺が云ってた) ・身延派のご本尊も割と適当らしい。 (日蓮正宗の寺が云ってた) ・一般人がご本尊を作るのも不敬らしい。 (戸田先生が云ってた、戸田先生にも作れないらしい)
†
【裏】 白熱した戦いがここにある!(内ゲバって云うな!!!)
日蓮宗(身延派)「釈尊は本仏で日蓮は開祖だよ」 VS 日蓮宗(富士派)「日蓮が本仏で釈尊は仮の姿だよ」
日蓮宗(富士派)、日蓮正宗に改名
日蓮正宗「日顕宗って云うな!!!」 VS (池田大作以後の)創価学会「池田教って云うな!!!」 VS 顕正会「日蓮大聖人に背く日本は必ず滅ぶ!!!」 VS まだなんか分裂したのがあったような……?
(この表で云うと国柱会や立正佼成会や霊友会はどこにいるんだろうか?)
※全ての元凶は弟子の解釈違いだよ ※分裂したところはみんな仲が悪いよ ※日顕は日蓮正宗だよ、浅井が顕正会だよ ※日蓮正宗は「早く学会と顕正会が誤りに気付いてほしい」と思っているよ ※というよりお互いにそう思い合ってるよ ※個人的に学会は戸田先生の意思を忠実に池田が引き継いでいたら破門されずに今も傘下にいたんじゃないかと思うよ ※牧口先生と戸田先生が哀れだよ
†
書き手だった当時の私にとってはこの内容が全く不完全なんだろうが、なんだか勉強になる気がした。また拾ってこよう。というより、寝ぼけた時に謎に殴り書こう。
最近、巷で「推し神棚」なるものが売られているのを見かけた。どうやら神棚を模したアクリルスタンドに自らの「推し」を祀り、それをご身体として崇めるもののようである。そこで私はふと思った、「これは神道に限定せねば売れぬものなのか?」と。云われてみればアブラハム三大宗教は偶像崇拝など論外であったし、だからといって他の宗教に目立ったものはあまりすぐに思いつくものではない。
だからこそ私はここで、「推し」を「仏」にする「推し仏壇」を提案したいと一瞬考えてみた。神道に限らず日本で定着した仏教で「推し」を「供養」する……?考えてはみたものの、供物という単語がどうしても故人に向けたものに思えてならない。そもそも「仏」に「成る」という時点で「推し」は故人である前提でしか考えられないかと思う。菩薩に成るような行動をする「推し」はこの世界でもかなりの少数派であろう。
そういうわけだから、おそらくそのような祭壇は神道のものでしか売れないのだと思う。……いや、わからない。「弥勒菩薩推し」とか「マンジュシュリー推し」とかがこの世に存在するということも否定できない。
結論から云うと、もう自由にやってくれという話である。「推し」を祀り上げる行為が楽しいなら神棚で崇め、供養したいのなら仏壇でお題目でもあげればいいのだろう。ただ、宗教観が明確な「推し」を祀るという時は十分に気をつけてほしい物である。時にそれは宗教戦争を招きかねないからである。
極めれば極めるほど宗教の勉強にもなりそうな行為の世界、興味が湧いたら覗いてみてほしい。
おまけ「推し仏壇という概念は成立するか」 ・基本的に推しは故人?命日の概念とは?戒名は? 初七日法要とか四十九日とかやるのか?n回忌くらいならやりそうだが(nは任意の数)
・推しは何宗で供養すべきなのか? 知るかよ 例外はあれど何だっていいだろうよ 葬式仏教の時代だ 成仏できればそれでいいんだ
・お盆・彼岸なども忘れないでくれ 二次元の推しの墓はどこにあると思えばいい?
・推し、無縁仏になる(パワーワード) あまりにもそれは悲しすぎるだろうよ……
・推し、永代供養で合葬される(パワーワードその2) 私のお墓の前で泣かないでください(?)
・推し、輪廻転生で畜生道に行く(パワーワードその3) 獣人はそうならざるを得ない(多分)
・推し、妙法蓮華経に帰依する(パワーワードに非ず) 割とありがちかもしれぬ
・ところで日本人は般若心経が好きなわけだが(わかる)
(了)
私はまたもや仕事を休職する羽目になった。 今回は一ヶ月以上などという大げさな休み方はしていないが、先回と今回が異なるのはそれだけではなく、今回きつかったのは身体的な崩れ方が大きかったことだと思う。 ある日突然、心当たりのない動悸・強い吐き気・目眩・その他諸々で倒れた私。最初は食あたりでも起こしたのかと思っていたが、何もそのような原因になるものは食べていない。過労にしては残業も殆どない職場であることから、まず有り得ないと決めてそれ以外の原因探しをした。 私は精神を病む時にはまず体から壊れていくことを思いつつ、いつものかかりつけ医を訪ねたところ、こんなことを云われた。 「様子を見ているだけでもしんどそうなので、診断書を書く。来週はもう休め」 どうやら医者が云うには、私自身精神的不調としては一切自覚がないが、見るからに強い抑鬱状態だったという。 そこから私の、布団で引きこもる生活が舞い戻ってきた。「ナニをアレすれば活力が出てくるんじゃねえの」などと茶化すような声が聞こえてきた気がするが、もちろんそんな気力はない。私はひたすらに眠り続け、星辰が揃うのを待ち続けた。 そして週の中頃。星辰は揃った。 封印された海底都市が浮上するわけでも世界の支配者が誕生するわけでもないが、私は目覚め、穏やかに活動を始めた。 今では少しの遠出もできるほどに回復した。無茶しないようにこれからも徃こう。。。
最近の私は、まるでやる気がない。 どういうわけか、何もしていないうちから激しく具合が悪くあり、何かをした後は倒れんばかりの疲労感だ。疲労がポンと取れる「合法の」なにかがあるのならば欲しいくらいである。 ……まあ、都合よくそんなものは出てこないので、諦めてエナジードリンクを500ml一気飲みして体を痛めつけつつやる気を無理やり引き起こしている。 夜中に渋谷でアホ騒ぎする気力のあるよく分からん奴ら全員の気力を全てかっさらうことが可能なら、残らず全て奪取して私はその気力を労働力に変換することで有効活用してやりたいくらいだ。 ああでも、「やる気がない」というのは厳密には間違っているのかもしれない。やる気はあるが、それを燃焼させる元気がないのだと思う。 そうなのだ、やる気はもともと存在するのだ。精神状態は元気なのだ。どうしても体の具合が悪いから、それに引きずられて元気がなくなってしまうのだ。 そうなれば体の健康をなんとかしたいものだ。肩こりがひどくて毎日頭痛吐き気に悩まされているので誰か揉んで欲しい。
俺の中の記憶に、いつまでも残り続ける人間がいる。そいつと出会った頃の記憶などとうの昔に消えてしまったが、そいつの記憶だけは俺の中に残っている。
俺は、そいつに対して「殺めながら犯したい程愛している」というような歪んだ溺愛感情を抱いていた。どういう経緯でそういう感情を抱きはじめていたのかは最早記憶にないが、その感情が恋愛感情とはまた別のものであるというのは明確だった。
俺はそいつに一種の憧憬の感情を抱いていたのだ。
俺はそいつと性的に交わりたいと云うよりかは、そいつ自身になりたかったのだ。
何もかもが虚しさに帰する時、何をしたところで無駄なのであろうが、精神が虚であろうと肉体は実なのであるから、肉体は動かんとしているのである。 精神を実にする方法を考えるよりか、肉体を実で有り続けるための方法、すなわち現状維持を行うほうが消耗は避けられるかと考えられる。 いや、虚である精神を実である肉体のために動かし続けることは酷なのかもしれぬと考える私もいる。 負をゼロにするのと負を正にするのでは動きの大きさが明らかに異なる。虚を中庸という状態にする方法があるのならば、精神は中庸、肉体は実になり、負と実の平 均が取れぬ状況よりかはマシなのだろう。だとしても、私には負をゼロにする方法を未だ知らぬ。それ故に、実の肉体を保たせることしか今はできないのである。 そういうわけだから、私の精神は一向に虚で有り続けるしかできないのである。
死にそうなくらいに虚無である、虚無なときにそれを考えることなど不可能でしかない。 私の今の気分をなめてもらっては困る。声を出すことすらも困難な情況にあたって、ものを考えることが可能だとよく思えるものである。 声は出せないが物が書けるのであれば、ペンを執ることによって物を訴えたら良いのではないか。私は何もかもの意思表示ができなくなったわけでない。 ただ私は絵を書くことに対して何一つ喜びを感じなくなってしまったので、文章でのみ物を訴えることになる。 ここ(註:病棟)に味方と呼べる味方は居ない。私の正義で語るのであれば。だからといって敵しか居ないわけではないが、味方は存在しない。 怒りが抑えられないならば引きこもるしかない。人に接して気分を害するのであれば、引きこもることで回避するしかない。 人間不信が加速して止まらない。みんな敵だと認識するのも時間の問題だろう。何によって止めることができるかは誰にもわからない。
私の部屋は、凄まじく汚い。自分の部屋の机では、作業は勿論できない。本棚から本は溢れている。以前どこかでミニマリズムを極めようだとか抜かしていたが、嘘のように部屋が汚い。
救いになっていること(?)は、いざとなれば掃除機はかけられることくらいだろうか。あとは、誰が見ても明らかなゴミで汚いわけではない(いわゆる汚部屋ではない)から、セルフネグレクトの域ではないというのも救いだろう。いい加減片付けを行わねばならぬというのは分かっている。だが、私の部屋で捨てられるものはもう捨てきった気がしてならない。
そうしたら、これ以上物を増やさねば良いということになるのだろう。
謎のガラクタを蒐集するのが趣味である私は、ひたすらに何に使うのかわからないものを買い漁るなどしていた。それももうやめようかという話である。部屋にしまうところがないのにものを増やすのをやめようという話だ。
あとは、覚悟を決めて少しずつものを捨てていこうと思う。「自分にとってはなんでもいいもの」と「どうしても捨てられないもの」を整理して、少しずつものを減らしていきたいと思う。
こんな時、日本人特有の神道的考えである「物に魂が宿っている」という考えが私を苦しめるのである。無機物は無機物だ。有機物のように生きているわけではない。なのにまるで生きているかのように扱わねばならないという強迫観念が私を襲うのである。
宗教は人を苦しませるために生まれたものではない。人を病的に縛り付けるために生まれたものでもない。こんな風に人が苦しむ宗教というのは――(以下強制終了)
少し精神状態が乱れているようだ。まずは落ち着いて、私なりに大切なものとそうでないものを見分けて整理整頓はしようと思っている。
私は短歌を詠むのが趣味であったりもする。
今まで読んだ短歌を風のようにかき消してしまうのはあまりにもつらいので、同人誌のように短歌集でも出そうかということを考えている。
同人誌を出すことには強く否定的だった私だが、この度このように思い立ったのは、私が生きた証として誰かの手に残るものを作りたいということがあった。売れる売れないはどうだって良いのである。少しでも私の生きた証をこの世界に残しておくということが重要なのである。
詳細はまた形になった時に公開すると思う。
嫌なニュースが多い。 マイルが貯まるとなにか嬉しいものがもらえると良いんだが、参る気持ちが貯まると病んでいく一方だ。 こうやってくだらない冗談を飛ばしていないとやっていられぬのだ。 いつのまにか私も病んでしまった。飲めぬはずの酒を飲んで眠りこけている。何だか少しだけ酒に強くなった気もしてならない。 今日もココアシガレットを貪りながら頑張ろう。いや、明日から本気出したって良いだろう。
書きたいことは脳内にいくらでもあるが、それを明瞭な文章にまとめることが困難な状況から抜け出せない。まさに、「何から話し始めればいいのか分からない」という状況が今である。
苦しみの淵から私は自分を引きずり出して、戻ってきたのだ。最早苦しみや悲しみの感情が麻痺してしまっている。苦しいということも、悲しいということも、あまり理解ができなくなくなった。それ故私は、「自分には理由も分からず」泣くのだという。
私が過去について覚えていることを書いてみたいと願ったが、何も覚えていない気がする。
あの国民服の男に熱狂する私は何だったのか。それが今、私の中で歪曲した挙句「ボロ雑巾のようになった死にかけの国民服の男を逝くまで犯す」というけしからぬ幻想を生んでいるのである。ひたすらに、私はその妄想によって苦悩に満ちているが、それは苦しいままで良いのである。その妄想が実現して猟奇殺人が行われた結果苦悩が取り除かれることは全く期待していない。そんな事をするくらいであれば、私がその男自身になってしまえば良いのである。そしてその男自身になった自分を、自分で逝くまで犯すことによって満たされるのならば、誰にも危害は加えない。
さて、私は一体何を云わんとしているのか、私自身にも分からなくなってしまった。
穏やかな空が少しずつ淀んでいく 灰色の空に霞んだ空気 私はその中を金色の鳩と歩いている オリーブの葉はみずみずしく 眼の前に平和が確かにあることを 不穏な世界にそっと知らせていた 私は鳩に口づけをする ほろ苦く甘い余韻 私は恍惚としていく
煙の立ち上る空が少しずつ晴れていく 紫煙は緩やかに 空気は鮮明に 私はその中を金色の鳩と歩いている
前回の入院報告に関する投稿を退院してから行うことになるとは思っても居なかった。私は幾つもの後悔を遺して、あの場を去ったような気がしてならない。
私の事を密に思い続けていた人のしたためた恋文を、「俺は頭が狂ってしまったから」と受取を拒否したこと。
私の乱れた様子を見て劣情を催し、「可愛い、もっと見せて頂戴」と吐息を洩らした女史の誘惑に乗らず別れてしまったこと。
「黙っているであれば見せてやる」と世界の闇を見せられて、その様子を密告できなかったこと。
思い出は尽きぬ。だが、それは忘却の彼方へ葬り去らねばならぬ思い出である。 ここで出会った人間のことを覚え続けていれば、忘れられぬ後悔から私は今以上に頭が狂ってしまうのかも知れぬのである。
さようなら、精神科救急病棟。 さようなら、果たせなかった約束たち。 さようなら、ささやかな思い出たち。 私はもうあの場所に二度と戻ってはならぬのである。
またもや入院をすることになってしまった。
人生のうちに片手で数えられないほど入院するのも、よほど体が弱くない限りはおそらくないだろう。 一時帰宅でパソコンを触れているのが非常に幸運かつ最高である。また、外はなかなかに暖かく、はしゃいで自転車に乗り図書館に出かけたら貸出券を忘れてそのまま帰宅するほどのハイテンションぶりである。
私は、体調不良の順番がどちらかといえば身体の調子を崩してから精神を壊すという人間なので、あまり感情的なつらいという感情を持っていない。だとしても、今回の入院期間に何度も辛いという言葉を発していたような気がする。更に言うと、漢字で辛いと書こうとして少なくとも5回は「幸い」と書き間違えるほどには「辛い」という文字列を手書きしたと思う。
辛いとは一本足せば幸いになるが、どこかから1本奪ってこねばならぬから、人の幸せを奪う羽目になると誰かが話していたが、そんなものは辛さを吐いている人から一本奪って夢を叶えてあげればよいのだ。
そんなわけで、またしばらく更新が途絶えるかもしれぬ。
※私が精神科病棟に入院している際、「少しばかり寂しさを感じる」と作成した詩歌だった。
†
孤独を愛す私は相棒にピース・ライトを連れて行く
高貴な紺に格調高き金の鳩
純白の細い円筒は私にとって伴侶のよう
私は純白にかちりと火を灯す
広がるは紫煙 広がるは曇天の空
ただただ孤高を強めていく
孤独を愛す私は相棒にピース・ライトを連れて行く
それはただ私が「独りでいる」ための相棒であり伴侶である
夜の深まった頃、気まぐれに外の冷たい空気に当たろうと思った。 まだ夜は肌寒い。上着を羽織った私は、ポケットの中に紺色の小箱がライターと共に入っていることを確認した。 準備は良いか。良いだろう。さあ、私だけの特別な時間を始めよう。
紺色の小箱の中から、鳩の紋章が刻まれた金の紙に包まれる白く長細い筒がいくつも覗いている。 格調高き紺色、優雅な金色、上品な純白。 私は一つの上品な純白を口にくわえ、火を灯した。 空を見上げる。漆黒の空に純白の放つ光が輝いている。その光は、私の吸気に合わせホタルのように光っていく。 ほろ苦い甘さに恍惚となっていく私は、もう孤独ではない。私には金の鳩がついているのだ。
・Huawei MatePad Paperは素晴らしい。私にとってはこれが電子手帳として最適である。これがあれば私はなんだってできる(誇張表現にも程がある)
・なかやまきんに君が「中山さん」って呼ばれてるの地味に面白いな。何も間違ったことは云っていないけどな。ついでに天理教の教祖も中山さんだな。
・この間、携帯につけていたバラムチのストラップを百貨店で落としたら、秒で店員さんに落としましたよと渡された。普通、人生の中で「バラムチ落としましたよ」って云われる経験は多分一生に一度もないだろうよ。
・「眠れないときにナニをアレすれば眠れるんだぜ」と云う囁きのような幻聴が聞こえてきているが、確かに間違いないな。私など、この間果てたあと気持ちが良くてそのまま眠ってしまったから、ナニをアレしたあとの残骸がそのまま枕元に放置されていてとても恥ずかしい思いをした。
・サイゼで昼飯を食べると、どういうわけか安い食べ放題の飯を食べすぎたあとの吐き気がする。マツキヨのエナドリは、合成のソーダ水の味がする。どちらも嫌いじゃない。食後の不快感さえなければ……。
・この文章群を締める最後のコメントが思いつかない。とりあえず、見えないお金には気をつけろ!
2022年が今日で終わってしまうなど、感覚が皆無だ。 今年は方向性のブレも少なく済み、自分の好きなものを目一杯楽しむことができたと思っており、特記すべきは、過去史上最大にお茶を多種多様に嗜んだと思っていることである。 その一方で、今年は随分と爆買いに走って、失敗も繰り返したことかと思う。とてもじゃないが、今年爆買いに費やした金額をまともに直視することができない。
――このままでは昨日と文章の内容が全く同じになってしまうので、話を変えることにする。とはいえ、話す話も特にはないのだった。 ひたすらに疲労が強いので、穏やかに休もうかと思う。
今年最後の爆買いは以前欲しい物リストに載せたファーウェイのノートPCだった。 思えばクレジットカードなるものを手に入れてから金遣いが格段に荒くなった気がする(今回のPCは銀行振込一括払いではあるが……)。 ためていた貯金を切り崩してまで買い物をしたら終わりの始まりであると自分に言い聞かせていたが、まさに今終わりが始まらんとしているところである。 来年どのようにして爆買いを防ぐかは検討の余地がある。「まだハイブランド品に凝って借金をしていないから異常ではない」と誰かに言われた気もするが、自分で異常だと気づく段階で何とかしておかないとすべてが終わってしまうのである。
そういうわけなので、来年の抱負を以下の通りまとめておくことにする。
1.無駄遣い撲滅宣言 ・ポイントにつられて買い物をしない ・買うかどうか迷ったら買わない ・極力現金派でいるようにする ・安くなっていてもいらないものは買わない
2.ものを大切にしよう(関西訛り) ・使えるものを活かす ・新しいものは極力買わない
無理せずに来年も頑張ろうと思う。
知人にもあまり知られていないような気がするが、私は香水が好きである。自分の好きな香りを身にまとっているだけでも,気分が上がって爆買いが捗る精神的にも安定するのである。
そんな私だったが、魔が差して遂に(本当に禁断かどうかはわからないが)禁断の怪しい商品に手を出してしまった。
フェロモン香水である。
フェロモン香水とは、人間のホルモンに似た成分を香料に混ぜたいわゆる「媚薬」と呼ばれるものであり、特段私は誰かのウケを狙ってファッションを整えることはないが、これを使えば私の精力が向上する気分が上昇するだろうと思い、眉唾ではあるがバクチをするものだと思って二種類の香水を購入してみた。以下、その商品のレビューになる。
1.【リビドー ベリーロゼ】
女性向けオーデパルファム。化粧品扱い。 「ベッド用香水」「興味ない男の前では使用禁止」と謳い文句がある。なかなかに強気である。 そして公式サイトのレビューには読んでいるだけで気分がみなぎってきそうな体験談がどっさり. うむ、なかなかに怪しい。ここまで高評価しかないとサクラがいると思っても仕方ない。 ちなみに配合されたホルモン成分はオスモフェリン、不確かなソースではあるが、女性が排卵期を迎えたときに分泌されるホルモンに近い成分という話があった。排卵期付近は女性が「一番元気な期間」であるとされているので、これだけでも男を誘う気満々なのが露骨に分かる。 しかもそこにイランイランの香りやダマスクローズの香りまで混ぜているというからさぞ官能的な香りなのだろうと思っていたが、その期待は裏切られてしまった。
首元に一吹き、第一印象は「むせるほどくどく、甘ったるい」だった。 また、香水というものは時間が経つごとに香りが移り変わることを楽しむものであるはずなのだが、その変化もわからないくらいに香りが一時間程度で風化してしまう。私はイランイランの香りを明確に知っている、いつその香りが立ち始めるのかと風化するまで待っていたが、全く気づくことができなかった。 「ベッド用香水」というのは、男女のまぐわいにかかる時間でちょうどよく香りが移り変わっていく様子を極めて扇動的に表現したものであると察した。
私の語彙力は歪んでいるのでうまく表現できないのが申し訳ないが、肯定的にいうなら「女の子らしい格好をした女の子の香り」、否定的にいうなら「色気の感じられない幼い香り」となる。少なくとも,成人した人間から漂う雰囲気のある香りでは一切ない。下手したら、私が10代女性でなければ漂わせてはならない香りかもしれない。
30mlで4000円弱というと、香水としてはまあ普通と思えるような値段ではあるが、この値段をまあまあな値段だと思える年頃の女性が買う香水にしては香りが幼すぎるという印象を強く持った。
ちなみに期待していた精力増進気分上昇効果だが、自分の苦手な甘ったるすぎる香りで逆に萎えてしまった。恐らくは使い切らずに廃棄してしまうだろう。わざとらしすぎる扇動にはあまり乗らないほうがいい。
まとめ:ショップが設定する商品の対象年齢が品質に対して高すぎる、大人の女性より女子高校生が身につける香りだと思う
2.【デルタ・フェロモン ムスク】 男性ホルモンに似た成分アンドロステノールを配合した、ムスクの香りの男性向け香水。化粧品ではなく雑貨扱い。いわゆるジョークグッズ。 地方によってはドンキの大人のおもちゃ売り場で売られているときもあるという、いかにもアダルトな怪しい商品。商品名で検索してもアマゾンなどの通販サイトのページしか出てこず、かろうじて見つけたサイトのレビューも二極化が甚だしい上に、具体的な成分表示ないし製造会社の名前も商品紹介には一切記載がない。 そして気になる価格は、アダルトグッズショップのエムズの通販サイトで購入すると5mlで3500円程度である。
うむ、怪しさしかない。値段も含め、安心して購入できる要素が皆無である。
大きすぎるバクチであることは分かっていたが、前項での爆死を挽回せねばと調子に乗り強く決意し購入へ至った。なお、二度爆死することは考えもしていなかった。
まずは手首に一吹き、第一印象は「好きな香りだが,香りが弱いのではないか?」。 荷物の到着したその日は格段に寒かった。今まで使わずにいた寝室のエアコンを今季初めて動かした日だった。当然、身体も温まらず香りも広がりにくい。
そこで翌朝、入浴を済ませてから首元へ一吹きして再挑戦。まもなく柔らかで優しい香りが漂い始めた。心地がいい。穏やかな気分になる香りである。暖房がよく効いた部屋で過ごしていると、香りの持続力がよく感じられる。春・秋程度に気温が暖かければ、朝ふりかけて正午までは持続するとなんとなく想像で思った。
香りについては否定する要素がほとんどない。「優しくて落ち着いた大人の男性の香り」という印象である。ただ、強いて云うのであれば、「ムスク単体の香りが強く持続するだけなので、香水独特の面白みはない」ということくらいが難点だろうか。
肝心の気分上昇効果であるが、自分の嗜好と香りの方向性の一致、「すごくお金をかけた香水をつけている」「自分から大人の男らしい香りがする」ことから来る満足感など諸々のポジティブな事柄から明確に感じることができた。私にとってはテンションが上がるというよりかは落ち着きを取り戻せるという効果がある気がしている。なお,アンドロステノールの効果は未だ定かではない。完全なるプラシーボ効果ではと指摘されると否定できないのが辛いが、そのプラシーボ効果で人が幸せになれるのであれば何も悪いことはないかと思う。
5mlで3500円という、ドルチェ&ガッバーナも驚愕してひっくり返るような値段であることが一番の欠点ではあるが、こちらはなくなればまた購入を検討したいと思う。
まとめ:自分の好きな香りをまとえるだけで人は幸せになれるが、ジョークに金をかけすぎるのはほどほどにしたほうがいい
3.今回の教訓 ・実物を確認したことがない化粧品は絶対に実店舗で買え (通販の何もかもに適応していいと思う)
・通販の扇動的な謳い文句は9割ヤラセだと思え (美容と性の世界には詐欺とまでは行かない扇動が湯水のように溢れかえっているので特に注意)
・通販のレビューは理論的根拠がなければないものだと思え (個人の感想です)
・男が女性化粧品で肌を整えるのは極力避けろ (リップクリーム代わりにも使えるとした女性向け美容液という名のグロスを唇に塗って「天ぷらを食いまくった人」になり,ひたすらに茶器をベタベタにしたことがあるので警戒している.こんなことになるなら普通にリップクリームでいい)
(終)
今回私のブログの通常更新は少しばかりお休みをいただくことにした。 なんといっても、DDRメモリを見ながら「256MBのSSDとか何のために存在するんだよ」とアホを抜かす程度には疲れているのである。 ちなみに、慣れない酒を飲んでいるのは「本当に私はアルコールが少しでもだめなのか」を人体実験していたためである。3%程度を200ml程度飲んだだけで眠りが非常に浅くなり気分もだだ下がりなので、「本当に私はアルコールが少しでもだめ」ということが分かった。
ブログの題名にUbuntuといれつつも(筆者注:2022年時点ではそうだった)Ubuntuの話を一切していないことに気づいたので、Ubuntuの話をしたいと思うが、ネタがない。強いて云うなら、私の使っているUbuntuは普通のUbuntuではなくて中国向けにカスタマイズされたUbuntu Kylinというものであるということだろうか。
Ubuntu Kyrin。私が勝手に中華うぶんつとは云うが特段普通のUbuntuとほぼ変わらない。だが、私がLinuxにおけるディストリビューションオタクであることから、今私の中だけでこのUbuntu Kylinが勝手に流行中なのである(以前私の中ではフランスのVoyagerというOSが流行りだったらしいが、あまり長くつかっていた記憶はない。なお、それ以前の愛用OSはZorin OSだった)
中華向けとはいえ、導入すれば日本語入力もできるので何も悪いことはなし。見た目はWindowsに近いので、Windowsを使っている人間でもおそらく操作性で困ることもないだろう。
そんなことより、私のWeiboのアカウントが行方不明になったのを誰か助けてほしい。お前いつの間にWeiboなんて始めてたのか、という突っ込みは無しでお願いしたい。
何もかもが虚しい。俺はこの一ヶ月一体何をやっていたのだろう。 この日記が一ヶ月弱続いたことは評価してもいいが、 その間俺は何か生産的なことをしたのだろうか? 本来ならこの場で一年の振り返りをしなければならないんだろうが、 この一年間の記憶を全て抹消したいくらいには嫌な記憶しかない。 俺はしっかりこの頭で覚えている。
そもそも、俺は何のために日記を書いているのだろう。 嫌なことも楽しいこともまんべんなく記録している日記は 俺にとって悪い影響を及ぼすのではないのだろうか。 少なくとも書いている本人である俺は色々考えてしまって苦しい。 書いて吐き出すことで気が楽になるとは言うが、 俺はその日記を書いているという過程が苦しいのだ。 色々と思い出すことによって繰り返し心が傷つくのはもう嫌だ。 俺はもう日記を書きたくないよ。 こんな精神が病んでいくような非生産的なことをするくらいなら、 俺は普通に働きたいんだよ。 俺は前言っていたじゃないか。 「自分の文章が見ず知らずの誰かに批評されるのは嫌だ」と。 じゃあこんな日記なんて書かなくても良いんだよ。 なぜ俺はそう言いつつもここに文章を書きたがったんだ? そんなことは分からんよ、俺の気まぐれだ。 とりあえず、俺はしばらく日記を書くのをやめることにするよ。 精神が落ち着いたら、また書き始めることにしよう。
どうあがいても病む方向に引っ張られるニュースが流れてきた。年の瀬に具合が悪くなるのはなんとも不幸だ。あんな話を聞いたら俺は悲しくなるよ。なぜ人間は人間を殺めたがるんだろうね。殺める対象が自分自身であったらまた話は全く別なんだが。人間が本当に望む瞬間に生命が終わることのできる方法というものはないんだろうかね。
――安楽死があったな。いや、もし安楽死で望む瞬間に生命が終わるとしても、その望む瞬間まで確実に生きていられることのできる方法がこの世にはねえもんだから困ったものだ。やはり人間の生死に関することを人間が制御するということは禁忌であって、神のみが制御を許されているんだろうよ。
先日、交通事故に遭いかけた。というより、俺にほとんど怪我がなかっただけで、あれは立派な当て逃げで交通事故だったのかもしれない。あの時俺は、確かに衝突時の鈍い音を聞いた。あまりにも不謹慎だが、あの時俺はそのまま乗用車に跳ね飛ばされていたほうが幸せだったに違いない。
今までの俺の「悔い改める」という発言は言葉だけのもので、その発言には実際に悔い改めるという思いはなかったのかもしれない。いや、微塵もなかった。そうでなければ、俺は今こんな不純な内容で悩むはずもない。いつまでたっても、俺は汚れた人間のままでしかない。
まず、俺は「今後一切自瀆をきっぱりとやめる」と言ってやめられなかった経験を何度経験しただろうか。もう手足の指の数で数えようとしても収まらないと思う。ここまで酷いと、もはやこれは性依存症の域じゃないのか。健康でごく普通の日本人の男だったら俺のように「一生涯にかけて自瀆をやめる」などとは多分考えもしないし、「自瀆がやめられないことに対する劣等感」も発生しないどころか「童貞であることを恥じる」傾向にあるのかもしれないだろうが、あいにく俺は「健康でごく普通の日本人の男」ではないから、「自身の中の童貞的性質が失われたこと」に対してひどく憤りを覚えるというわけだ。
そして喫緊の問題、なぜ俺は先生に対して不純な感情を抱いてしまうのだろうか。先生の神聖さを穢してはならないと言いつつも、それを犯してみたいと思う俺は一体何だ。色々詳しく書くと様々なものがアレしてしまうので書かない、とか言いつつも既に俺は興奮状態にある、妄想の力は恐ろしい。……そんなことはどうでもいいというより、たったそんなことで興奮する俺に対してもひどく劣等感を覚える。俺は先生と社会的生命を共に失おうというのか?俺の社会的生命が失われるのも嫌に決まっているが、その自殺行為に先生を巻き込もうというのか?ああ、よくない、よくない。禍々しいこと極まりない。早くこの不純な感情をごく普通の憧憬に変えるべきだ。
「あんた、突然何を言い出すんだい」と言われそうだが、俺はたまにこうやって自分の不真面目さを大きく後悔することがあり、今がその時だからこうやって文章にしているのだ。
ああ、俺はどうしてここまで性に奔放な人間になってしまったのだろうか。この世界にはいろいろな刺激があまりにも多すぎる。こんな文章を書きながらも、今日も俺は独りで自分を慰めてしまった。
――先生、いつか俺のために二人で祈ってくれますか?
先生のことを想い始めてから少し経ち、気がつけば何時でも先生のことを想わずにはいられなくなっていた。
俺は決して落ちてはいけない恋に落ちてしまったのだ。これは極めて危険な恋愛感情だ。
その想いが不純な愛によるものか純愛によるものかは関係ない、この想いは何があっても先生に伝えてはならない。先生の見ていないここで明らかにすることはいいかもしれないが、教会内では心の奥底に秘めておかねばならぬ。この想いに沿って行動を実行したいだなんていう願望は先生の社会的生命を絶つものであり、やがてその災いは俺自身にも降り掛かってくることだろう。
あまり病みすぎても鬱陶しがられるので、少し元気を出して様子を見ている。ひとまず、今の俺は疲れてはいるが人と話をして笑顔になることができるくらいには回復した。
そういえば、今日は日曜日だった。日曜日といえば、俺は「あの場所」へ行かなければならんのだ。そう、先週は訳ありで行かなかった教会へ。俺は強い罪悪感と共に、抑えることのできない性的欲求を抱えながら、教会へ行くことにした。
以下、まとまらずやり場のない感情を無理にまとめた文章群がいくつか。やけに長くなってしまった。
*
あの淫らな夢を見た日から俺は、先生のことを思い始めると「よろしくない妄想」を同時にしてしまいそうになった。俺の妄想で先生という神聖な存在を簡単に穢してしまうのか。そんなことが許されるのか。もし俺がそんな「よろしくない妄想」をしているのが先生に知られてしまったら、俺は先生に怒られてしまう。
怒ると言うとだいぶ前、先生が何かに対して激昂して怒鳴っているのを聞いたことがある。基本的に俺は怒られるのが嫌いだ。誰かが誰かに対して怒っているのを聞くのはもっと嫌いだ。しかしあの時俺は、先生の怒鳴り声を聞いたことで心の中の何かが揺さぶられるような思いがしていた。間違いなくあの時、俺は何かしらの快感を覚えていた。不快になっていたら俺はここまでこの出来事を鮮明には覚えていない。
だから何だという話だが、まあ、そういうことだ。察してくれ。
*
かつて俺の信条は「誰にも操を穢されず、誰の操も穢さず」だった。過去形なのは、この身の童貞的性質は既に失われてしまったからである。俺は自身の童貞的性質が望まぬ時点で失われたことに対して、激しく憤っている。俺の童貞は神聖な存在にしか終わらせることができないと信じていたのだ。
*
先生と俺はもともと接点がそこまであるわけではないし、正直言って親密度も高くはない。少し前に二人で話をしたが、そこまで深い話はしなかった。しかし唯一変わったことがある、それは――いや、やはり言うのはやめておこう。
*
思い返せば、奇しくも今日の説教の中に「神についていくより、牧師についていってしまう信徒」の話があった。もしかするとこれは先生を独りで想う――そして、その想いは非常に不純である――俺に対するお叱りだったのかも知れない。
ああ、ああ、先生、先生、俺は、俺は――。
つらいよ。苦しいよ。
こんな不幸ばかりの世界で俺はどうやって生きていけばいい?
そもそも俺はこの世界に存在すべきではない人間なのか?
お前はこんな世界でも共に生きることを選択してくれるのか?
それともこの世界から俺と一緒に消えてくれるのか?
答えてくれよ、なあ、
……。
頭が痛い。比喩でも何でもなくただ単純に頭痛がする。そのおかげで本がまともに読めなくなった。というより、本を読む気力が失せてきた。いや、それも違う。何をしても特に面白さを感じない。それ以前に、あまりにも疲れ果ててほとんど何もできない。何があったのか、何も心当たりはない。
憂鬱だ。ああ、憂鬱だ。俺の原動力が何だったのかすら思い出せなくなるくらい、憂鬱だ。おまけに身体は怠くて重いときた。もう俺は動けない。さあどうする。動けなきゃどうしようもないだろ……。
ちょうど昨年の今頃「アナログに原点回帰せよ」としきりに話していた私は,いつから電子端末にハマるようになったのだろうか。
気がつけば、手元に携帯電話の機能を持つ端末が3台、タブレットは古いものも含めて2台、パソコンは1台だが更に増やす予定がある、という過去の発言から遠くかけ離れつつ混沌とした状況になっているのが謎である。
今は要らんけど欲しい物リスト 1.スマートウォッチ&スマートフォン&ノートパソコン、ついでにリュックサック、ただしいずれもHuawei製で揃えたい (Huaweiというだけで何もかもをそれで揃いにして欲しくなっているあたり、ブランドに踊らされている感が強い奴である)
2.スライドするとQWERTYキーが出てくるスマホが欲しい (この前までイギリスのメーカーのやつでそういうものがイオシスで取扱いがあったのに、取扱いにすら気が付かないうちに販売が終わっていた。Blackberryに強い憧れがあるのにも関わらず、なかなかその類の端末を入手するに至らず10年は経った気がする。今は要らんけど欲しい)
3.モバイルルータ並みに小さい端末は無いだろうか (Rakuten Handの事を仰せでしょうか、中古は衝動買いできる価格なので大須でうっかり買ってしまいそうなのが怖い。私は何に使うかよくわからないものをその日の気分で買うなとしつこく云っている。
無料ではないから……)
4.iiyamaのOSなしデスクトップパソコンとその他諸々 (本命、資金が貯まったら一気に買う。誰でもいいので私に日本銀行券の1万のやつを10枚ください、お米券やお肉券ではなくて日本銀行券なら汎用性がありますよ、いつでも結構です)
毎日が楽しいことをここに記録すると更に楽しいんだろうが、楽しすぎるあまりにサイトの更新に時間を費やすのがもったいなく思えてしまうのが私の価値観かもしれぬ。
どういうわけか、今日俺は何をしていたのかが記憶にない。そんな状態で日記を書こうだなんて無茶だろう。もしかすると俺は出かけていたのだろうか?今日の生活の中で感情になにか変化があったかどうか振り返ってみようか……。
俺は人に真面目すぎるだとか言われたとしても、自分のことは不真面目な人間なのだろうと思う。こんなことを言ってしまうと「純粋無垢な俺の追っかけ」が減るかも知れんのだが、俺もやはり低俗な人間なのだ。少しでも気を抜けば性にまつわることを考え始める俺のどこに清純という要素があるのか、誰か探してくれ。前回・前々回の日記ではここには明らかにしないでおこうと思っていた俺の「素」が出てしまい、ああ、やはり俺はこういうことを考えずにはいられないんだな、と考え込んでしまった。
だからもうこの際暴露しよう、残念ながら俺はどうしようもないほどの好色家だ。必ずしも他人のみがそれの対象になるわけではないことだけが、普通の好色家とは違うところだ。
日記というものは毎日書かなければ日記とは言わないような気がしているので、今日も日記を書くことにしている。実際どうなんだ?毎日が平穏に過ぎていく人間の日記は毎日同じことを書いているのか?そうでもないよな。俺は日記に感情を書き留めることもするから、毎日は比較的平穏だが内容は全く同じとは言えない。
今日の日記は人によっては非常に酷い内容だと感じる日記なので、読みたい人は自己責任で読んでほしい。なぜこんな内容を日記に書こうとしたのかは俺でも分からぬ。
†
今日は妙な夢を見て目が覚めた。
教会の聖職者と俺が、濃厚な性交渉をする夢だった。夢の中の俺は嫌がるどころか、むしろ「ひどく良い」と言ってとろけた表情をしていた。夢であるのにも関わらず実際の身体にまで性交渉をしているような感覚が発生し、目が覚めるまで夢が現実であるかと錯覚するほどだった。俺は夢の内容を思い出すたびに聖職者の優しい愛撫の感覚を下半身に甦らせる。そしてこの夢に出てきた聖職者というのは、言うまでもなく男だ。
というわけで爆買いしたものが届いた。やれやれ。俺はいつになったらこの行為をやめられるんだ。俺はいつも「また無駄なものを買いやがって」と自分に怒るが、「過去の俺」にとっては何一つ無駄なものはないんだよ。理解しろよ。別に「今の俺」にとっても無駄なものは特にないんだがな。ははは。
今回はシールとノートを爆買いしてしまった。というより、おい、お前はこの間までここのブログでミニマリスト宣言を書こうとしていたのではなかったのか!
……ということはどうでもよいので、早速買ったシールを携帯電話や名刺入れに貼ってみるなどした。なかなか良い。今回はテスト投稿なので写真は無し。そもそも携帯電話に貼ったシールは撮りようがない。しかし名刺入れに貼ったシールがなかなかに可愛いので誰かに見せたくてたまらんので、いつか何かしらで写真を撮って載せるかもしれん。
俺はただ呆然としてパソコンの前に座ることしかできなくなってしまった。
何が起こったかって、そう、今まで書いていた日記の記事が全部消えたのだ。俺は今までこの場所を「人民服と広霍香」と名付けていろいろ書いていたわけなんだが、その日記のデータを何者か――俺以外の誰だというのか――が全部消したのだ。そして苛立ちながらサイトのトップページを見ると、「あの時死んでいたほうが幸せだったのに、何で俺はあの時死ななかったんだ、何で俺はあの時轢死体にならなかったんだ、こんな世界なんて消えてしまえばいい」。
……お前、やったな?
「許せ、許せ、ああああ」
何に対して謝罪をしているのかはあえて自問自答しなかったが、俺は相当参っていたようだ。なに、生きているだけで丸儲けじゃないか。お前にはまだ死なれちゃ困るな。また旨いものでも食いに行こう。金のことは気にするな、俺が奢ってやる。
「お前、また何か爆買いしてたのにそんな状態で大丈夫なのか?」
だから気にするな。