20250725-
Twitterから青い鳥が消え失せて久しい。その世界から青い鳥が消え失せたことによって人々の幸福も共に崩れ落ち、やがて不毛な争いばかりが目に付くようになった。なぜ人間は愚かだと分かりつつも争うことを辞めないのか。そしてなぜその争いの炎に燃料を注ぐような人間も同時に存在するのか。人間は実に愚かな生き物である。
……意味の分からない前置きは程々にしておこう。
私は外出時に必ずA5サイズのシステム手帳を持ち歩いている。どれだけ重かろうが、かさばろうが、これがなくては出かけられない。この手帳は私の記憶の補助となっており、パソコンで例えるのならば取り外し可能な記録媒体、すなわちUSBメモリに当たる存在とも云える。
「手帳とは予定を書くもの」と云う印象がある。全くもって間違ってはいないが、それだけの役割とするのは決して賢い使い方とは云えない。そこに予定を書くだけでなく、日々の思い、何を食べたか程度の軽い日記、物事に対する深い思索など書き殴ることで、手帳はますます機能的なものとなっていく。分野においてノートを分けるということもしているが、あくまでも分けたものは「サブ」であり、「メイン」で使い倒しているものは肌身離さず持ち歩いているシステム手帳である。
このように手帳には様々な用途があると私は思っている。そんな中で私は自分の「つぶやき」を書き留めておくことに手帳を使っていることを紹介したい。名付けて「アナログツイッター」である。
アナログツイッターはその名の通り「アナログ」であり、スマートフォンを握りしめてポチポチとする――蛇足だが私はフリック入力をガイドがあっても全くできない――ようなものでは一切ない。当然インターネットにも繋がってはいない。自分の手で文字を書き、思いを手帳に向けて「つぶやく」のだ。私にとってこの手段で気持ちを吐き出すのは非常に精神面で良いということに気づいた。アナログツイッターの良さは、「誰とも繋がっていない」「紙面がある限り文字制限はない」という2つが大きい。
手帳の中に思いを書き殴るというのは、意図して人に見せない限り誰にもその思いは伝わらない。「承認欲求どうのこうの」という面々にとっては全くの無意味行為に見えてしまうだろうが、突発的な負の感情をインターネットに後先考えず投稿した時の炎上は、アナログツイッターには一切ない。誰とも繋がっていないからである。手帳だけに書かれた思いは一旦冷静になって自分の文面を見返すことができ「この発言はまずかった」と反省することができるが、全世界の不特定多数が見られるインターネットに投稿された思いは誰かに見つかれば終わりである。私の過去の経験からも、人を無駄に刺激するような内容をその時だけの衝動でどこかに吐き散らすというのは非常に格好悪いと分かったので、この方法は良いと云えるのである。
そしてなにより私は文章量が多い、以前から繰り返しているが、Twitterの文字数制限が140字というのはあまりにも少ないと思っており、なにか思いを書き出す時は必ず投稿が複数に分かれる。私の思いはひとまとまりになっているからこそ意味があるのだと思っている。変なところだけ切り抜かれて「ああでもないこうでもない」と外野から騒がれるのも鬱陶しい上に、そもそも不特定多数に自分の思いを全て伝える理由もないので、手帳に何かを書き殴るのが最適だったのである。
こうして書き溜められたアナログツイッターの文章は、文章の再構成や加筆削除を経て、やがて私のサイトの文章として「未完のルポ」にまとめられたり、Null氏との共同ブログに投稿されたりするのである。物書きとしては非常に効率の良いやり方かと思っている。
この「アナログツイッター」を真似する方法は非常に簡単であり、小さなノートと筆記用具を用意すれば幼稚園児でもできる。A5サイズの分厚いシステム手帳である必要はまったくない。そのへんに転がっている「なんやら学習帳」で十分だ。国語や連絡帳は縦書きなので、高学年向けの算数が良いかもしれない。私はこれに年組名前を律儀に書いて持ち歩くことがある、「なんや【ねん】、どこの【くみ】や、【なまえ】いうてみ おだじまです」である。何番煎じのネタだと怒られそうだが、私は非常にこのネタを気に入っている。
おふざけはさておき、私はペンとノートを持ち歩き、周りがスマートフォンを凝視しているのを横目に思いを書き殴るのである。個人的にはスマートフォンを凝視しているよりも何かをペンで書き留めている方が圧倒的にスマートに見える。ソーシャルメディアに疲れた人々には是非試してみてほしい。