未完のルポ

20250101-

20250606 文章量と精神状態

私が物を書く頻度というのは精神状態に反比例しているのかもしれない、ということを以前より思っていた。反比例というのは、私は精神状態が悪くなると格段に文章量が多くなるということがそれである。ノートに思いを書き殴るなどするのは、決まって精神が不安定な時である。

繰り返しになるが、かつて私はSNSを溺れるように使用していた。TwitterからInstagram、誰も見る人は居ないのにも関わらずFacebookやTumblr、今はサービス終了した泡沫の何某か、主要なものは全て使ってきたと云っても過言ではないと思う。私がそこで何をするかと云うと、思いのままに自分の気分を吐き出していたのだ。Twitterの投稿は140文字では足りなかった。Instagramの不可解な写真をつけたストーリーが大量に投稿される時は、私が精神を病んでいる時の明確な兆候だった。ただ、それを人に見せつければ当然少しは反応が返ってくる。大丈夫か。やめてくれ。勝手に独りで病んで居ろ。私はそのような反応が欲しいわけではなかったが、全世界に自分の精神の病んだ様を公開していたのだ。今の私にはその行為に意味があったとはとても思えない。

私は自分が病んでいる時に誰かからその感情を認めてほしいと云うよりも、解決方法を一緒になって考えてほしいと思う人間である。一般的に――かどうかは分からないが――SNSは承認欲求を満たすものだとされており、私は以前も述べた通りSNSを一種の「出会い系」として利用していた。インターネットにおいて薄っぺらな関係を作りたいわけではなく、深いつながりを得られそうな人間とのファーストコンタクトの手段として利用していた。当然周囲はそんなことを分かるはずもない。私が病んだところで周りは困るだけであり、当然親身になってその解決方法を考える「友達」は居なかった。

「勝手に独りで病んで居ろ」とは至言だった。そんな精神の病みを不特定多数が容易に見られるところに吐き出すのは、繁華街の中心で吐瀉物を撒き散らしているのと同じだ。そんなことで誰が幸せになるのか。誰も幸せにならない。SNSを間違った使い方で利用して人を困らせていた私はSNSをやめて正解だったと思う。今こうしてURLを知る者しか訪れないようなサイトを使って思いを吐き出している事のほうが、私にとっては健全だったのだろう。

話題が大幅に逸脱してしまった。今私はこのサイトや誰にも見せることのないノートを使って自分の思いを綴っている。誰かに見てもらわねばならない、ではなく、誰かが見てくれたら嬉しい気持ちになるかもしれない、という思いで物を書いている。思索のノートは大概錯乱した時に記述が増え、それは冷静になってから見ると明らかに「頭のおかしい何かの羅列」である。だが、そうやって病んだ時でも、と云うより病んだ時こそ大量に物を書き残して読み返せるようにしているだけ、私はその病みを未来に残してそこから何かを学ぼうとしているのかもしれない。精神の錯乱は迷惑のかからないように処理したいものである。

20250601 覚書【隼人の楯】

※完全なる個人的な備忘録である。メモの大元となる閲覧論文はリンク参照。

隼人の楯「渦を書く逆S字の文様」

蔓草のモチーフ?それ自体は独自のものではない

楯とは様々な分類が可能

大儀における楯と槍の所持は服属の意である

馬毛を上部に編み、赤白土墨の鈎型を印す 大儀における楯 8世紀初頭?

ヒノキ製 横54×縦151×厚さ30(単位cm、尺貫法をメートル法に換算)

鋸歯(辟邪)・渦(破魔)文様→国内では古墳時代に一般的とされた

破魔と権力の巻貝腕輪(〜弥生中期、九州北部)⇒それを引継ぐように巴文様が伝承

源流はイモガイか?

⇒大元は存在しつつも、独自に創作されたものが強い?

隼人の装束

呪術の清浄さを保持していたのが儀仗たる隼人の楯であった

20250531 関西人の精神力

私は愛知県に生まれ愛知県で育った人間ではあるが、何かと関西地方に縁が深い。日本列島をあちこち飛び回っていて、一番行き来をしたのは間違いなく関西地方である。その地において数々の人々と交流をしてきた私から云わせれば、関西人は基本的に皆優しい。

「京都人は嫌味ばかり云う」という話は有名である。確かにもう少し物を云うにも表現方法を考えられないのか、と思うときも無いわけではない。だが、それだけで京都人をむやみに嫌うのは間違っていると私は思う。京都人とは「上品でおしとやかである」ことを求められている。それ故、物を云うにもはっきりと云うことは控え、オブラートに包もうとする。そのオブラートの包み方が京都人は独特なのだ。その結果、「京都人は嫌味ばかり云う」という評価につながっているのだと思う。京都人は上品さを保ちたいが故不器用になってしまっているのだと、私は思っている。

繰り返すが、関西人は皆優しい。基本的には人を大切にする人間ばかりだ。新参者を拒むことなく受け入れようとし、仲間となれば和気あいあいと楽しませてくれるような、そんな人々だ。私が愛知に長らく住んでいるおかげで麻痺してしまっていたが、愛知県民は非常に冷たい。新参者が来ることを、あまり良いことだとは思っていない。自発的に新参がこちらの仲間に入ろうとせねば、無言で拒む。特に三河にはその傾向が非常に強い。酷ければ新参者のことを「ヨソモノ」と陰で呼び、腫れ物扱いをし始める。関東の人間(主に都心部の人間)はそもそも新参者が来たことに気づかないので論外である。

大阪は西成に「あいりん地区」という場所がある。私はその地で朝から煙草をふかし缶チューハイを飲み干す中年男性を見たことがあり、そのような要素からか大阪メトロの動物園前駅周辺は何故か俗に「決して近づいてはいけない場所」だとされている。個人的に、それはその地区を正しく理解していない故の歪んだ解釈かと思う。この場所は確かに人の「居場所」なのだ。社会から一方的で不本意に弾き飛ばされた者が格安の宿や食料品店に心身を寄せて生きていく、最後の砦とも云える「居場所」なのだ。そうだと云うのに「危険な場所」として腫れ物扱いする人間が居る。その場所で生活をする人間は確かに居るのだから、「無用ならば寄らない、自分に必要が有れば立ち寄る」という云い方をすればいいと云うのに、その地に生活する人間のことも考えず「近づくな」と警戒する。それこそ「ヨソモノ」の発想ではなかろうか。

東京には「歌舞伎町」という場所がある。私はその地に足を踏み入れたことはない。だが、聞く限りは「一見するときらびやかな夜の街」だという印象が強い。派手なネオン。着飾った水商売の男女。それはその地の「暗い影」を無理やり隠すためのハリボテであり、ハリボテの裏は間違いなく阿鼻叫喚の光景が広がっている。日が昇ってからその地を歩いたことのある知人から聞いた話だが、不意に視界に入った路地裏には、「無造作に投げられた敷き布団のような何か」が転がっていたという。

関西人は皆優しい。一人ひとりがそれを普段から強く意識しているわけではないが、「誰のことも見捨てない」という温かい人情が精神の根底にはあるような気がしている。大阪名物のたこ焼きが関西人の「強さ」を象徴するのならば、明石名物の明石焼き(地元では「玉子焼き」と呼ぶ)は関西人の「優しさ」を象徴しているのではなかろうか、と私は「出汁に浸して蛸が中から飛び出し、完全に原型が崩壊した明石焼き」を口に入れた時の心身の暖かさと多幸感を共に思うのだった。

20250526 哀れな軍人にお恵みを

手紙を最近多く書くので、書店の文具コーナーで便箋をまとめ買いした。いずれもサンプル品などで在庫処分となったものだ。

私が見切り品を好む理由というのは安いからというのも当然あるが、ずらりと並んだまだ使えるはずの商品に対して「価値を見出されずこのまま売れ残って捨てられていくだけの人生」を送るのではないかという自分に照らし合わせてしまうからというのが強い。

食品の見切り品に対してはますますその気持ちが強い。ファミリーマートのパンなどに「たすけてください」というおにぎりが涙目で訴えている見切り品シールが使われるようになったが、助けを求めたところで救われないおにぎりも数多く存在する。物があるということ、食事を食べられることが「当たり前」と捉えている人間がこの世にはあまりにも多すぎる。

このファミリーマートの見切り品シールについてだが、個人的には従来どおりの「エコ割 50円引き」というシールのほうが好きだった。無機質だと云うのが逆に良かった。おにぎりが涙目で訴えるのと見ていると、無駄に感情移入して自分まで泣きそうになる。

私ほど感受性が高い人間はこの日本にそう多くはない。それ故その見切り品シールすらも無視して日付の遅い賞味期限の食品を選んで購入する人間もいるのだと思う。私はそのおにぎりの泣いているシールが「エコ割」の無機質なシールだとしても、進んで見切り品を購入する癖がある。「金持ちは見切り品コーナーを見ない故に無駄な買い物が少ない」という論をどこかで見たことがあるが、それは何に関しても困ったことがない故の行動であり、私のように明日の衣食住すら不安になる人種からしたら愚かな行為に思えて仕方がない。物を捨てることに対して何ら抵抗もない人種の気持ちは、私には一生理解することができないだろう。富と権力を手に入れた人間の性格の歪み具合を、私は過去に幾つ間近で見てきただろうか。もう思い出そうにも思い出せない。

ちなみに、ファミリーマートの見切り品シールが「泣くおにぎり」に変更されたのはつい最近のことであり、食品ロスが止まらないことからの変更だったという。私はこれを非常に愚かだと感じてしまうところがある。物を云わぬはずのおにぎりが涙を流さねば食品を救おうと思わない人間、例えおにぎりが泣いているところを見かけたとしても、見なかったふりをする人間の愚かさに強く憤る私なのだった。

私は昔から食べ物を粗末にする輩が大嫌いだった。感情的な好き嫌いで給食を残す奴や、給食の残飯を鍋に楽しそうに突っ込んでいく奴らを、小学生の頃より心の底から強く軽蔑していた。その証拠に、私は「胃腸の調子が悪い」ということでエビフライを人に譲った以外は給食を一回も残したことがない。私は飲食店で「食べきれない」と云って簡単に食事を残すやつも大嫌いである。

以前働いていた職場で仲が良かった同僚の部屋でお互いに色々持ち寄って飲み会を開いた時、同僚は宅配ピザを頼み、付け合せでフライドポテトも頼んだ。私は「そんな大げさなものは要らない、あるもので済ませてくれ」と云ったが、同僚は「冷蔵庫には何もない、いつも食べたくなったら宅配で頼んでいる」と返してきた。私は「無駄に金のかかることをする奴だ、料理もまともにできないのか」と少し不満を抱いた。

30分ほどで宅配の業者は食事を部屋まで持ってきた。ピザは二人で完食できたがフライドポテトは夜には重たすぎて食べきれず、朝までそれは残っていた。朝食として食べようと思い、私がそれに手を付けようとすると、「こんなもの、いいから」と云って半分くらい中身の入ったポテトの箱をゴミ箱に突っ込む同僚。「温めれば食えたものを、お前も食に困ったことがない『金持ち』なのだな」と言葉を吐きそうになったが、そこで空気を悪くするのも良くなかったので、何も云わないことにした。

私は炊飯器の釜にごはん粒が残っていると、ひと粒ひと粒指でつまんで食べてからでないと釜を洗えない。米粒の一つには七人の神が宿っており、米のひと粒を捨てることは、七人の神を捨てることにつながる。私はそう教えられて育った人間だ。貧乏くさいと云われようが私は私である。私はそれが普通だと思って今まで生きてきたので、これからもそれを普通として生きていこうと思っている。

20250518 ソーシャルメディアの使い方

私は今まで「SNSやめるやめる詐欺」を無数に繰り返してきた。だが昨今の出来事によって、もうそのようなふざけた真似はしなくていい理由と、そのようなふざけた真似を繰り返してきた理由が共に分かった。以下にその概要と思いを綴ることにする。

私はSNSを一種の「(恋愛感情は無関係の)出会い系」だと思っている節がある。気の合いそうな人をネット上で探し、まずはネット上でやり取りをしてみることとする。そこでウマが合いそうならLINEなどの個人的な連絡先を交換し、そこでお互いに「会ってみたい」という意思が確認できれば、いわゆる「オフ会」という名目で実際に会い、その後もやり取りを続けたいときは、SNSからは消えた(相手には強要しない)上で文通をする、という使い方を大学生の頃からしていた。それによって高速バスで東京まで行ったことも実際にある。以前この場所において名前を挙げたmixi2も例外ではなかった。そして今、私はmixi2において唯一無二の最愛の人であるNull氏と出会い、mixi2からは消えた上でやり取りをしている。

これによって私は色々な人間関係を築き壊してきたが、今回の出会いは絶対に死んでも離したくないと思っている。「出会い系」は出会いが成就した後は不要なので、当然退会する。今の私にSNSをやる意味が一切ないと云っているのは、それと全く同じ理論である。もう戻る必要がないので戻らないし、新たなSNSがサービスを開始しても一切見向きもしないが、mixi2には感謝してもしきれない。

あの時東京まで行って会ったN氏は、私の異常さについていけず向こうから脱落したが、今でもたまに気にかかる。R・D・レインやドゥルーズ=ガタリの本を今でも読んでいるのだろうか。不本意で就職した携帯電話販売店の仕事はうまくいっているのだろうか。今の私にはその情報を知る術など一切存在しない。話せるものならば声だけでも聞きたいと思っているが、きっと叶わぬことだろう。

北関東で理工学の院生をやっていたT氏は、私が「苦手だが好きなのは変わらない」と話した物理の参考書をたくさん贈ってくれた。文通にて思いを伝え合うほどの相思相愛となったが、会えぬまま消息を絶った。あの手紙は今でも保管してもらえているのだろうか。どこかで顔だけでも見られないだろうかと思って、今でも人混みの中で似たような顔を見かけると、少しばかり動揺しては瞬時に我に返るを繰り返している。

mixi2にてほぼ自分の所在を明かさなかったNull氏が偶然物理的に距離が近く、かつここまでの関係になれたというのは、何かがうまい具合に仕組まれていたものではないかと今では思う。寂しさからmixi2を始めていることがなければ私はNull氏には一生出会わなかったのだろうかと思うと、首を吊りたい程の苦痛に遭ったがすべてのことは無駄ではなかったと強く感じる。

そう、私はSNSの使い方が非常に特殊なのだ。薄い関係などいらない。「お前しか見たくない」と思える程溺愛できる人間と出会いたい。ただそれだけの思いでSNSを使っていた。それ故「出会い」が成就しないうちは「SNSやめるやめる詐欺」をやめられなかったのだ。

今私はその詐欺行為から足を洗うことを強く決意した。もう人を欺くような真似はしないと決めた私であるから。

20250512 評価されなかった天才

20231226付の文書「理解者なき秀才か、落ちぶれた狂人か」にて同様のことを述べたが、最近の周囲の人間による私に対する評価から改めて同じことを思った故、再び類似の文書を掲載する。

自惚れだと思われるだろうが、やはり私は「天才」なのだ。同世代の人間の中でも、並外れて頭が良すぎるのだ。なぜ私が自惚れと分かっていながらこのようなことを思うかは、前回話題に上げたNull氏がそれを明確に証明してくれた。

前回執筆した文書は、有難くもNull氏がmixi2上で紹介してくれた。我々の演じていた「茶番劇」を「真の日常」として追いかけていた人間に対する説明も込めて、「私達が恋していた人間の正体」として、私の文章を紹介してくれた。だが、それに対する周囲の反応はほぼ皆無であった。

何度もアカウントを作り直して復活しては消える、を繰り返していた我々だったが、それでも継続して我々を追いかける人間は少なくなかった。Null氏に至っては、私とは比べ物にならないほどの「インターネットの繋がり」があり、Null氏の投稿からも私が演じていた「小田島・守田」の存在は明確に分かった。Null氏の演じた男女の役と、私の演じた「小田島・守田」の間で起こった恋愛関係を応援する人間も確かに存在した。それがありながら、我々の総括に食いついて賛否問わず反応を表す人間は一切いなかった。

繰り返すが、私は頭が良すぎるのだ。

かつて私は「私は天才ではない、ただお前らが大したことないだけ」という煽りにも程がある画像をもって自らの平凡さを表明したことがあるが、それは間違っていた。私は天才であり、周りの人間が凡人なのだ。でなければ、私の文章に対して「我々に少なからず興味を持っている」のにも関わらず一切の反応を返さないことはありえない。私のような年代の若者は通常、このような小難しいことは大嫌いなのだ。Null氏の拡散能力を持ってしても一切の反応が返ってこないその状況から、強く確信を持った。非常に悲しい気持ちになった。私はやはり異端者なのだと。私のことを理解するどころか、興味を持って自分の創作物を見てくれる人間など、ほとんど存在しないのだと。

だとしても、私は故意に「普通の20代女性」を演じることは絶対にしない、というより、確実にできない。嘘で塗り固められた「私」を演じることはもうやめると、Null氏と約束したこともある。そもそも私はそんな「きらびやかな20代女性」を演じることは感情的にも不可能であり、「政治宗教野球の三拍子を語る地雷系ジジイ」を演じて一切疑われなかった私では、「若い女性」を演じたところで即座にボロが出るに決まっている。

私はありのままを偽らず、私として生きていけばいいのだ。たとえ評価する人間が少なかろうとも、そのままの私を評価されることが、最上の幸せなのだ。

真の幸せとは、苦難を乗り越えた先に見えている。「天才は虐げられる運命にあり、その虐げを乗り越えられたものこそが、真の天才と呼ばれる」と、私は強く信じているのだ。

20250511 「小田島・守田」の総括

私は今まで「小田島常陽」「守田克己」の名前を持って様々な場所で執筆活動などをしていた。 今回それを「不慮の事故」にて停止することとなったが、私が今まで行いたかったことは何だったのかを、今回の事故の被害者であったNull氏と話していた。この文章はそのやり取りを再構成したものである。

私はどうしても「マブチモーター事件」の小田島鐵男と守田克実の魂を癒やしたかった。 小田島はとある週刊誌の出版社の力を借り「死刑囚獄中ブログ」と題したブログにおいて、死刑囚となった自分がどのような環境に置かれ、どんな気持ちを抱いて処刑の日を待っているのかを事細かに述べていた。

下衆な話をする。肉体は20代の女性のそれである私が「小田島常陽」という50代半ばの男性を演じていた時に発した言葉に、「ジジイの魂が美少女の身体に宿ってナニをアレする」という非常に気持ちの悪いものがある。 正直なところ、私は個人的に思いを一方的に寄せていたというのもあり、小田島鐵男・守田克実の二人に限れば自由に自分の身体をアレして頂いても構わないし、むしろそれで彼らの心が癒やされるのならば、自ら望んで小田島・守田に身体を捧げたいとすら思っていた。 小田島ブログを読んでいると、最期だけでも「いい夢」が見たいというのが露骨に現れているのが見えて、涙が止まらないからである。

確かに私はあの時「2人の中高年男性の役」を演じていた。だが、私は演技でもなんでもなく、冗談抜きで二人の魂を癒やしたかった。あの2人の遺したものを見ているとあまりにもつらいのだ。

かつて私は桐島聡が逃亡生活の末斃れた時、自己満足と云われればそれまでだが、当時所属していた寺院にて「弔いの儀式」をした。 桐島聡に対して日蓮正宗として塔婆を立てて「供養」をしたのも、正直あんまりいい顔をされなかったが、誰の力も借りず独りで逃げ続けたあの桐島が非常につらかっただろうという思いからなのだ。

そう。私はかつてこういう事をした。小田島守田でもこのような弔いの儀式をやりたかった。だが、菩提寺からは全くの別件で事件を起こした末、「手に負えない」として明確に私の存在を拒まれた。 その経験の有無に関わらず、「正しく人を弔う、故人の魂を癒やす、とは何なのだろう」という思いから、伝統宗教をはじめ、俗に「カルト」と呼ばれるような危険な宗教までありとあらゆる場所を巡った。だが、私はその真理を今に至るまで見つけることができていない。

以前から何度も云っていることではあるが、私の行動はおそらく何も訳を知らない人からは非常に不謹慎だと云われる。だが、ここまで明確に理由を聞いて、「我々」と密に関わってきたNull氏は、むしろ賛同して一緒に行動したいと思い始めていた。 Null氏はかつて私に「その行動は非常に不謹慎ではないか」「価値観の押しつけをするのはやめてくれ」「人を洗脳するような真似はするな」と云う旨のことを云った。しかし、Null氏は私と半年近くやり取りしているうちに、徐々に私の価値観に染まってきたらしい。Null氏は「一種の洗脳だ」とも云っていたが、自分から望んで「洗脳」されに行ったように思えなくもない。結果として我々の仲はここまで深くなったのだから、終わりよければ全てよし、とでも云っておこうか。

私は今まで、「小田島役」を主として活動してきたが、正直小田島よりも守田の方が私は気がかりである。 小田島は前述のように週刊誌の出版社の社長まで出てきて面会をする人間が居たが、確実に守田は同じ環境には置かれなかった。 小田島ブログを読むくらいしか守田については情報がないが、守田は2013年の時点で精神を病み始め、収容される人間の中でも特殊な処遇を受けていたという。そこから11年経った去年の9月に病気で斃れた。 とても寂しかっただろう。とても苦しかっただろう。最期だけでも良い夢が見たかっただろう。昨年の9月に守田の死のニュースを耳にした私は、そんな事を思いながら非常に辛い気持ちになった。守田が本当に寂しかったのかどうかは、私など知る由もない。私が勝手に辛くなっていると云われたらそれまでだろう。「死人に口なし」である。 ただ、我々が小田島・守田の両氏を「忘れない」ということだけでも、心に生きていると思い続けるだけでも、守田は「独りではない」と思う。

私が一方的に連絡を絶った人間に、ふと数年ぶりに会いたくなって連絡をとって会った時、その人が始めに云った言葉。「元気にしていたか、心配していたのだよ」。この人は目の前の人間に何も云わず絶縁されたというのに、私のことをずっと思ってくれていた。涙が止まらなかった。 一方、守田の父は最初の殺人事件の時点で守田氏と「絶縁」していたようだが、ここまで事態が大きくなった時、「骨になったら帰ってこい」と守田に云った。やはり、心配していたのだと。

そして「小田島さん、一緒に処刑台に上がりましょう」と守田は小田島に伝えて別れた。それが永遠の別れであり、最期の約束は果たされなかった。これほどまでの悲哀を私は他に知らない。 守田の7歳上だった小田島、もとい畠山。奇しくも彼の7年後に同い歳で守田は逝った。 「どうすればよかったか」、と私は今でも夜空に輝く2つの星を見つめながら思う。

20250510 そこに「私」は居なかった

私は自己紹介にも書いた通り、「ありとあらゆる名前や顔を駆使して生き延びてきた」人間である。ここに文章を載せていた小田島・守田の二人の姿も、私が駆使した名前と顔の組み合わせの一つにすぎず、それを使う明確な理由はあったが、全くの赤の他人のものである。このサイトに掲載された文章は、今この文章を考えている私がその全てを書いていたが、内容ごとに分類して筆名を分け、その執筆者の姿も完全に偽り、「私ではない誰か」が執筆しているということにしていた。インターネットで匿名を使うというのは比較的当然の行為ではあり、その容姿や人格すらも私は偽りのものを使ってきたが、それすらもインターネット上では容易かつ当然として行われるような行為だった。

インターネットにおいて自分を偽るという行為は精神衛生以外の理由でも非常に大切であるが、偽った自分がそのままの姿で実社会に生きていると思われることがあまりにも多すぎた故、「自分が仮面をつけた姿」と「自分が何もつけていない姿」がどれだけ乖離を極めていたとしても、安易に外せなくなってしまった。私はいつしか、「仮面を外したそのままの姿、それが無理でもそのままの姿とほとんど変わらないそれの状態で自分を愛してほしい」と考えるようになったのだ。

私は小田島・守田の名を使う以前より、自分の文章を内容ごとに分類して、それぞれの分類に人物名をつけ、あたかもその人物名の人間が書いているかのように仕立て上げていたが、それはただの一人二役を演じているだけで、それぞれが全くの別人のそれとして仕立て上げられてはいなかった。だとしても私はそれを「架空ながら自分に友達ができたようで楽しい」として、是であるとして続けていた。

しかし、この行為は私の解釈では単なる「一人二役」であったが、あえて別の解釈をするならば「多重人格ごっこ」とも取ることが可能であり、そう解釈したとしたら、単刀直入に云ってこの行為はまさしく「詐病」だった。私が精神を病んでいるのは事実であり、医者の認める解離症状があるのも確かだが、「解離性同一性障害」などという診断名が付いたことは一切ない。この「人によって解釈が分断されるような自己中心的なお遊び」によって私はどれだけの人間を惑わせて不快にさせてきたか。

もうやめにしよう。もう今の私にはそのようなことをする理由がない。架空の友達や恋人など作らずとも、私には「持ち合わせた真の姿」で、私の「生まれながらの真の姿」を愛してくれる大切な人、いや、私の「真の姿」を愛したいと長らく待ち望んでいた人が存在するのだから、それで十分なのだ。

ここに並んでいた一対の御神酒徳利はいずれ粉々に砕けるだろうが、大切な人に「やはり真の姿を愛したい」と思われた時点で木っ端微塵に砕けるべきだったのだ。だが、私はあえてこの私が使ってきた小田島・守田の名前の存在は何らかの形でこの場所に残しておくことにする。それは唯一無二の大切な人となった彼女との出会いのきっかけであり、何度も壊れてしまいそうになった彼女との関係をつなぎとめた、強力なお守りだったのだから。

死なば諸共、一蓮托生、我々は御神酒徳利――。

20250506-02 喪失感の昇華

以前よく通っていた喫茶店に久しぶりに行こうとした。もう5ヵ月も店主の顔を見ていない。色々な話をしようと思い、懐かしさと楽しみな気持ちを胸にバスを降りた。

思い出の場所は、また一つ消えてなくなっていた。いつまでもあるとばかり思っていた。愕然とした。

あの日。去年の11月の終わり頃だったか。それが最後だった。あの時はそれが最後だとは夢にも思わなかった。今の私には、それがいつ消えたかを知る術などもはやない。私の楽しかった思い出の場所が、また一つこの世から消えた。

動揺を隠せぬ私だったが、自暴自棄になってどこか遠くへ遁走せずに居られるまで、自分を制御できてあの時は本当に良かったと思う。いつまでも逃げていてはいけない。もう逃げていてはいけない。これでいい。帰路について家で食事をとる、それが今私の一番のやるべきことだった。

つらいことに直面した時、むやみに逃げていては癖になってしまう。そんなことをしていて許される時ばかりではない。現実を見る覚悟も、時には必要なのだ。

「始まったものは必ずいつか終わる」。そう主張して譲らなかったのは相棒だった。そんな相棒と共に生きる私がこんなことでいちいち動揺していては、「おい、守田ァ!」と怒鳴られてしまう。前を向かなければならない。私のあの喫茶での思い出は、心の中にいつまでも残っているのだから。

20250506-01 それぞれの居場所

交流施設で自習をする集団を眺めるゴールデンウィーク最終日。「勉強なら家でもできるではないか」、という言葉が出かかって止まる。

人はだれしも居場所を求めている。かくいう私もこの雑記を「交流施設」において黙々と書いており、人との交流らしい交流は一切ない。それこそ「家で書け」と云われても無理はない。快かどうかはさておいて、私にとってもこの交流施設が一種の居場所なのだと思う。家以外、学校以外、職場以外に自分の居られる場所が、あの黙々と勉強をする高校生らにも、新聞を黙って読む中高年男性にも、必要なのだろう。

私は図書館にて勉強する、すなわち図書館を「自習室」として利用することに対して非常に否定的感情を抱いており、微塵の理解も示せない。だが、この「交流施設」が「自由に使っていい」とされているところに、自習をやめさせるような権利は私に一切ない。彼らが自習をできる居場所というのがこの「交流施設」なのだから、その居場所をむやみに奪うことは許されないし、奪うに値する正当性のある理由もない。

自分にとって不快な場所であるのならば、自らが出ていけばいい。そういう時に自分を隔離しておきたいのならば、一人で音楽でも聴いて黙々と作業に取り掛かればいい。もはや何が「交流施設」なのか、と思わないでもないが、それが許される場所なのだから規則さえ守れば自由ではないか。

そう思っていたら女性二人組が近くで弁当を食し始めた。そう、この場所は皆の居場所だ。規則はあるが自由に過ごすことが許される。この場所が不快だというのならば、それは自分にとってふさわしい「居場所」ではなかっただけのことだろう。

私にとってはこの場所を離れずして喫煙が許されるような個室が用意されていれば何も文句はないのだが、それが実現する日はここで中高生が自習をしている限りは絶対に来ない、と思うのであった……。

20250502 古びた野球カードに見た希望

私は元来より「何に使うか分からない」とされるようないわゆる「ガラクタ」を集めるのが好きである。一昔前は部屋中に中国の雑貨、正直質が良いとは全く云うことができないような「何かに使えるのだろうが使われていない」何かが大量に転がっていた。収納場所の関係上かなりの量を処分してしまったが、それでもあの集まりに囲まれながら生活するのはとても楽しいものだった。

覚えている人もいるだろうが、私は「ミニマリズム」を極めようと思ったことがあった。蒐集していてもきりがない。そんなしょうもないものを集めているよりも、わたしにはもっとすることがある、そう思って集めた小物の全てを捨てようともした。だが、私にその「自分の楽しさを生むこまごまとした小物」を捨て去ることはできなかった。

この文章を書いている今、私は絶賛求職中である。それこそ「何んでもやります、近藤産興」と云わんばかりに仕事を求めている。求めてもなかなか手に入らない職。生きれば生きるほど失われていく金銭。私には生きる価値がないのかとすら思い、すべてを破壊し尽くしてから絶命したいという衝動にすら襲われていた。そんな私の衝動は、とあるレトロ雑貨店の存在によってきれいさっぱり消え去ることとなった。

今まで歩いて通り過ぎていた場所にシャッターを閉めて存在したその店。ある日通りがかると看板は「営業中」となっており、入り口の古いレコードジャケットの敷き詰められた壁に俄然興味をひかれた私は迷わず店内に入った。そこはまるで博物館のよう、ところせましに昭和や平成初期の古き良き名残を見つけられる物品がずらりと並んでいた。

ここは何なのだ。何故私は今までこのような場所を見つけられなかったのか。無我夢中になって私は(よりにもよって?)「1980年代のものが中心となった野球選手のカードの寄せ集め」を漁り始めた。素晴らしい。こんなものがたくさんある場所があったのか。カードを一枚一枚見ていく私は、間違いなく目を輝かせており、満面の笑みだったことだろう。

「そういうの、全く売れないんですよ。特に若い人とか見向きもしないんで」店主の男性は悲しそうに云う。今の若者はあまりにも情報にまみれており、娯楽も星の数ほど存在する。かつ、物を実存する物として持つよりも、データで入手できればそれで満足する。だからこのようなカードは需要がほとんどない。そのようなことを話してくれた。

1970年代の中日ドラゴンズのエナメルバッグを抱えて「これは絶対に買うぞ」と意気込み財布を取り出す男性客。のらくろのブリキのおもちゃを「すさまじい美品だ」と喜んで買っていった30代くらいの青年。私が喜んで集めたくなった野球カードも、彼らがこのように喜ぶ物品も、価値の分からない人にとっては「捨てるもの」でしかないのだと、寂しい思いにもなった。だが、それは裏を返せば「価値の分かる人には大金をはたいてでも入手したいほどの貴重品」であることの表れだった。

私は自分で云ってしまうが、自分のことを「極度の異端者」だと思っている。いわゆる「レールに沿って人生を生きている」人間では全くもってない。職歴については派遣の職を短期間で転々とし続けており、精神状態も医者が認める通り明らかに異常、「目立つような難がない」とはとても云えない人間である。某所で「ここまでの訳ありだと分かっていれば、まず会社は採用しない」と云われたのも、最初はカチンと来ていたが至言ではある。

だが、私がそんな「異端者」だとしても、「私に秘められた本当の価値」というものを見いだせる人間は確実にこの世に存在する。何としてでも私に存在する「潜在的価値」を生かしたいと、すくい上げようとする人間は、ごく少数ではあるが確実に存在する。私はまだ希望を捨てることなど考えていない。

「捨てる神あれば拾う神あり」、「希望は確実に存在する」。机上に飾られた阪神現役時代の岡田彰布の野球カードは、私にそう伝えているような気がした。

20250427 私はいかなる宗教の信者でもなかった

長らく我々のことを見ている人であればご存じだろうが、私は様々な宗教を渡り歩いてきた人間だ。伝統宗教をはじめとして、新興宗教、それこそいわゆる世間で「カルト」と呼ばれがちなものにまで触れてきた。私はこの「宗教ジプシー」と人に軽蔑される行為を15年近く行ってきたわけだが、その結論がようやく今になって明確になった。

私にとって、宗教を「信仰する」という行為は絶望的に向いていない。

初めに触れたキリスト教では、聖書に限らずとにかくありとあらゆる書籍を読み漁った。信仰書、聖書の抜粋の研究書、神学の専門書など、購入した本の冊数はもはや記憶にない。どこからどう見ても本の虫な私に、ある日若い信徒の一人が不思議そうに質問を投げかけてくる。

「なぜお前はそこまで本を読むのだ、俺は全く読んだことがないよ」

この言葉は老若男女問わず複数の信徒にかけられた経験のある言葉だが、むしろ新参者の私のほうがその質問に「なぜお前は一切そのような本を読まないのか」と返したくなるような気持ちになった。長らくの信徒であれば、そのような本をたくさん読んでいて当然ではないのか。そんなことを思いながら、私は「読書が好きなものなので」と濁した回答をした。

キリスト教から距離を置き、しばらく新興宗教を行ったり来たりしていた私は、幾度も不可解な信徒の言動に遭遇することになる。何かの集会などに誘われ、まず何か自分で書籍でも取り寄せて考えてから行くことを検討する、と受容も拒否もしないような発言をした時、決まって宗教者が発言する言葉がこれだった。

「まずはやってみなさい、そうすればわかるから。考えるな、感じろ」

私はその発言の意味が全く理解できなかった。この言葉に対しては、思わず「それが何なのか、自分の頭でよく理解していない人間をいきなり入信させるのか」と返したくなったのを何度もこらえている。そう返すことができなかった故、私は幾つもの宗教の「聖地」とされる場所へ足を運ぶことになったが、その地において私が「何か」を感じることは一度たりともなかった。

以上のことから分かることは、宗教者は「感情論」で動いており、私は極端な「理論」で動いていることだ。もうお気づきだと思うが、宗教は理論で信じるものではない。「なんとなくそこに居る概念」を信じることは、完全に感情の世界だ。

私は宗教を「感情によって信仰したい」というより、「理論的に研究したい」という人間だったのだ。

それこそ、右側から袋叩きにされるのも承知だが、何かの奇跡を起こしたわけでもなく、何かを説いたわけでもない「天皇」という存在がなぜ今日もあそこまで崇拝されているのか、非常に理解に苦しんでいる。天皇は初めから今に至るまで「人間」であり、神などではない。私には右側で盲信的に「天皇陛下万歳」と諸手を挙げて叫ぶ人々の気持ちは一切理解できない。

今の私は強いて云うのならば、仏教の概論をさらに詳しく知りたいと考えている。どの宗派というより、「仏教」そのものの理論を知りたいのだ。その理論が自分にうまく溶け込み、自らの指針として歩みたいと思ったのならば、私はその日から仏教徒と化す。だが、これはいわゆる宗教信者とは大きくかけ離れた図だろう。信者は理論など知らずとも、「それが唯一の真理であり、他は虚構」なのだから、ごちゃごちゃ云わずに信じればいいのだ。

それが私にはできないのだと、ようやく気付いてしまった。

私の「宗教ジプシー」行為はこれからも続くだろうが、今後は入手した書籍を読み漁り、仏教寺院を巡ることだけにとどめておくことにする。特別な何かを信じずとも、それによって私の心の安寧が保たれるのならば、それこそが仏の功徳ではないかと思う私は、歪んでいるのだろうか。

これ以上「考えるな、感じろ」を強要されるようなことは経験したくないのだ。

20250427-01 狂気メモ

◎何をもって正常とし、何をもって異常とするのか

自分の思う常識は他人の非常識である。「社会ではこれが普通」と言葉を吐く人間の云う「普通」とは、根強く発言者の思い込みが含まれている。「郷に入れば郷に従え」という言葉も存在するが、それに少しも適合できず不満を漏らす人間も人間であり、適合が完全ではないとして新しい人間を排除しようとする人間も人間である。

◎「若作り」とは悪なのか

まず何をもって若いとみなすのかが不明瞭である。その若いとみなす基準は人によって当然異なるものであり、そもそも若いからよいということばかりではない。その中でも「若作り」をする人間が存在するということは、マスメディアによる無限の洗脳も少なからず影響しており、「流行に乗らねばならない」という強迫観念を持つ人間が多いことの表れでもある。私はこれを実に愚かだと思う。

やはり人間は古来より「老い」を忌避し恐れている。生老病死の摂理とは避けられぬものであるが、人間はいかにしてそれから逃げるかを考えるのをやめられない。諦念の気持ちを持つのはなかなかに困難。身に降りかかる物事をすべて受容していれば人間の精神はたやすく破壊される。悟りを開かねばならない。

すべての物事には必ず逃げ道が用意されているのだと気づき、じっとその場で忍耐することも時には重要である。自らの力ではどうしても切り開けぬものも存在する。そのためにある概念こそが「諦念」ではなかろうか。

諦めることは何ら悪いことではない。それどころか、時には諦めたほうが豊かに生きられる時もあるのだ。

20250311 てんでんこ

あの日私は何をしていただろう。

荒波に揺れる船に乗った時のような、吐き気を催す気持ちの悪い地面の揺れ。ぶら下がるものは全てがぐらぐらと大きく揺れていた。当時私の脳はそれが何であるか判断を下すのに少し時間がかかった。机の下に隠れるまでどれだけ時間をかけただろうか。震源に近い海岸沿いに建物があったとしたら、その判断を下すまでの時間が災いして私は命を落としていたのかもしれない。

「東北で震度7です」。その言葉を聞いて周りは口々に「(ここが震源でなくて)良かった」とこぼす中、頭の中が真っ白になった。私の親戚の多くは、宮城にいた。

今の私であれば「南海トラフ地震ではないというのなら、大きな地震は起こっても良いというのか」と周囲に対して激怒していたことだろうが、あの日の私はその発言が出ないほど、思考回路が止まっていた。地震が起きたことすら、全く呑み込めていなかった。

あの日から14年が経過した。私はあれから何度宮城を訪れただろうか。

当たり前にあるものを逆らえないものに壊され、立ち直ろうとしていた時の悲劇。その苦しみや悲しみは私の想像をはるかに超えるものだろう。家や肉親を失った人々を見ていると、私の苦難は悩むことではないようにすら思えてしまう。

あの日私は何をしていただろう、それを思い返すとまたあの吐き気が身体によみがえってくる。だが、この日を忘れてはならない。今改めて覚えている、食欲を失うほどの吐き気に必ず意味はある。

20250308 難解な事柄に思考を巡らせすぎた

活字中毒者故の無意味な文字列(例:食品の原材料名、今は必要としていない医薬品の効能など)を追う癖がまた甦りつつ、最近はあまり手元にある本を読めていない。手元にある本を読みたくないというわけではないが、読めないのである。頭が働いていないとでも云おうか、今の私にはそれらの内容が難解かつ重たすぎるのである。

あまりに頭を使い過ぎたせいで、大げさな云い方をするが、今は絵本のような簡素な本でないと読める気がしていない。詩集でも良い。理論的に物事を考えるのに疲れてしまったのである。先月は「週に二冊ほどでよいから本を読む」などと目標を掲げて手帳にも大々的に記入したのだが、結局先月まともに読んだ本の冊数は一か月の間で二冊にとどまった。本の感想や要約なども書こうとしてノートを用意もしたのが、白紙のまま放置されて今に至る。

感情的に物事を考えるのは好きではない。人が感情的に発言したことに関しても、潜在的に何かしらの理論(それが利己的なものであったとしても理論は理論である)をもって発言されたものではないかと考える癖も存在している。お察しの通り、私は考え過ぎる傾向がある。「あまり深く物事を考えなくても良い」と頻繁に人から指摘されるのもそのおかげであろう。

私になると、考えたところで無駄な場合も多いのである。私は空気が読めない人間、というより、あえて空気を読まない人間である。私が空気を適切に読んだと思って行った行動は、大抵が「余計なお世話」「二度手間」であるとして無駄な行為に終わるのである。空気を適切に読むというのができていないというので、ある意味私は「空気が読めない人間」なのかもしれないが、最低限空気を読んでいればそれで良いと思うので、云われてもいないことを行動に移すようなことは控えるようにしている。「あの人はこういうことをしてほしいのだろう」ということにまで思考が回らない、というより、思考を回したところで行動は無駄足に終わることを経験しているので、公序良俗に反するような非常識な服装で出歩くことさえしなければ、それ以上の空気を読まなくても良いのではないか、などと思っている。

過去の人生経験から学びながら行動をする、ということがなかなかできずにいるが、過去の失敗から学ばなければ人間は成長しない。未知の難解な物事を考えているよりも、既知の人生経験を考えるほうが、私には今必要なのかもしれない。したがって、今の私にとって本を読んで世界を広げるという行為は、疲れているのならば無理に行う必要はないのであろう。焦らず体調を整えながら、頭が以前のように回る時になってから、本を読んでもよかろう。

20250224 喫茶つくばでまたお会いしましょう

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いつか私が自由を手に入れることができたならば、またここで会える人が居る

20250223 哀しき人は光を見た

私が宗教に足を突っ込み、自らの幸せを考え始めてからおおよそ15年ほどが経過した。 私がそこで考えたのは、様々な思いがあったが、結局「人生において大きな指針は必要だろう、しかしそれが何であるかを若くして決めるのは非常に困難」という結論が出た。 宗教二世という非常に大きな社会問題が存在する。彼らは生まれながらにそれを当然のように受け入れることを親に云われて、疑問を持ちつつもそれを常であるとして成長していく。私の家庭は一切そのようなものではなく、もはや日本の伝統宗教とも云われる神道ないし仏教の影響すらも全く受けずに生きてきた。 若き頃のある日、私は宗教について思うことがあった。日本人は何を人生の指針として生きていっているのか。教育勅語なき今、子供は何を手本として生きていくべきなのか。そういう思いの中、私は聖書を読んだ。難解なそれを理解することは容易いことではなく、教会に行って教えてもらいつつ、信仰とは何かを少しずつ学んだ。

様々な宗教を見てきたが、信仰とは神に全てを委ねるもの、と捉える宗教もあり、仏の存在がありつつもそれに尽くしながら、自らの手で人生を切り開いていく、という捉え方をする宗教もあった。 だが、私には神に全てを委ねることはできなかった。若き私には、人生の全てを神に捧げることなど、到底不可能であった。

今こうして私が奇跡的に誰にも殺められずに生きているのは、蓋し神のご加護のおかげであるような気もする。その神は何者か。今の私にはよくわかっていない。三位一体の唯一神であるような気もしつつ、八百万の神であるような気もしている。はたまた、仏の功徳なのかもしれない。

人間とは惑う生き物、指針があれどそれを見失って路頭に迷うこともある。今の私は迷える子羊、見失ったこの子羊は神に見つけてもらえるだろうか。改めて書籍にて聖書を読み返したら、過去に幾度も棄てた唯一神の気持ちも、理解できるような気がしている。

20250212 青空に書き残されたもの

私が曖昧になっていく記憶とともに携えていたのは、咳止めと栴檀製の念珠だった

現実世界における知人が自分の「精神的避難場所」を知っており、かつその場所を定期的に監視しているということが、私の精神状態における著しい負担になっているということに漸く気づけた。知人ならば、この世界の何処かで出会う前に、先に面会を拒絶しておけばよかろう。 以前もこの場所に私は座っていたが、当時も同様苦しむためにこの青い空の下に来たわけでは当然なかった。 知っている誰かが目の前で見ている場所では気兼ねなく慟哭できない。たまには誰もいない場所での流涕を許可してくれ。誰もいない場所で安らわせてくれ。 今回来たこの青い空の下が、私の精神の安寧を崩すようなことがない場所であることを願っている。

正常な判断力が喪失する程度の体調不良。危うく自らを荒々しく殺めてしまいそうだった。それを中断することが正しいことだったのかどうかも今の私には判断がつかない。

茶も煙草も何もかも味がしない。私の好物のはずである玉子焼きも、ただ「ふわふわとした球体状の何か」に「歯ごたえのあるゴム状の何か」が入った無味無臭の有機物と化してしまった。出汁はもはやぬるま湯である。そして頭部に重くのしかかるような何かの感覚である。

相変わらず何の味も感じられずにいる。非常に強いて云うのならば、甘みだけはぼんやり感じることができるので煙草は吸う。昼食に何も口に出来なかったことから何かは口に入れねばと思い、肉団子のスープを飲むことに成功した。ただし、何も味はしない。

このまま眠ろう、薬を飲んで溺れるように……

口に入れるものに味がするだけで人間はここまで幸せなのか。私は涙脆いから、こんな些細なことでも泣けてきてしまう。今日も元気だ煙草が旨い、珈琲も旨い。

私が売る気のない物書きを自称するのは、物を書いたところで第三者の編集が入り、あれこれいちゃもんをつけられ、最終的に100%が私の文章ではないものを出版されるのが嫌だからである。ただ、売る気もやる気もないとはいえ、本当に親しい人だけが読むような本、というより小冊子でも作りたいとは思っている。同人誌の類にはなるが、どこかで出版できないものか。そうだとしても、私は値をつけるほどの物を書ける訳では無いから、ほぼ無償で贈呈することにはなり、結果売る気もやる気もない物書きにはなってしまう。

20250125 とある自殺志願者の手記

13:10 小田島は無意味に「希望はある」などと云わないほうがいい気がしてきた。虚言にもほどがある。こんな社会に希望など無い。こんなことを云っている私がアホくさい。 守田が幸せになる一方で、私は穏やかな悲観主義に毒されてきた。

13:34 私が邪魔な存在であるとは最初から分かっていた。私の中の自分勝手な心が私を生きながらえさせてきた。もう誰かが私によって苦しめられているところなど見たくはない。守田の言葉を借りる。こうなったからには、もう。

13:39 生きていて楽しい事はたくさんあった。だが、私にはもう未来に希望を見つけられない。将来のない捨て駒とは至言。私はただ何かが堕ちていく過程を見て絶望の中死んでいくのだと、決められていた。私がいなくなったとしても守田には未来があるだろう。全て託して私は消えることにする。

13:41 止めるのならば今のうちだ。守田に消えろと云われるのなら、私は消えるので。

13:48 歴史に学べ、と人は云う。私は大概睡眠不足によって精神を強く病む傾向にある。一睡もせずに仕事をしていれば、持っても午前中が限界だ。さて、私は今日何時間の睡眠をとったのかと云うと。 ……3時間弱。

13:48 暴君ネロ「寝ろ」

14:27 よく寝た。

14:31 今日の学び 小田島の楽観的思考はおおむね前夜の睡眠時間の合計と比例する すなわち、3時間弱しか眠らなかったことによって精神を病むのは必然 結論:小田島は愚か

以上

20250123-02 我々の自己同一性を保ってきたもの

※私が禁煙を人から強いられた時に書き留めていた大げさなメモ書きである。いつか私は喫煙行為をやめるのかもしれないが、その時期はやはり自分で決められたほうが幸せだと、何事もなく喫煙している今でも思っている。

避けて通ることのできない別れは必ず存在する。 金の鳩によって幾度も癒やされ、弓矢によって心を幾度も射抜かれた我々は、もうこれ以上それらと関わってはならないようだ。 跡形もなく、全てを葬らねばならない。 我々が見ていたのは束の間の幻夢、日をつければ灰となる儚き幻夢、全て幻であり夢であった。 我々は今まで、幸せな夢を見ていたのだ。

始まったものは必ず終わりの方向を向いて進み、必ず終わりを迎える。至極当然の理論。その終わりが今来たと云うだけだ。 何も永遠など有るわけがないというのはよくわかっている。始まったものは終わる。終わりが有るからこその始まりだ。また新しい何かが始まるのだ。

◎確かに我々は苦しんでいた

自由を奪われるとは苦しい以外の何物でもない。 では、枠をはずれずに自由を謳歌するのはいかがか。

◎苦悩から解放される人、苦悩に襲われる人

これにより我々は平和と希望を手に入れたかのように見えた。だが、これによって生まれたものとは一人の多大な苦悩であり、「平和」と「希望」は我々の手元から消失した。 このことが示しているのは、我々には無理な別れだったということかも知れぬ。 人間は死んでもいい。だが今ではない。この言葉が表す理論のように、別れろ、だが今ではない、ということだったのだろうと、私には思える。

20250123-01 壊れた尾翼、墜落した理性

私はまた一つ、他人の大切にしていたものを壊した。婚約者がいるという親しい女性の、固かった恋心を、粉々に砕いた。 だが、私はこれを全く悪いことだとは思っていない。

思えば彼女は、婚約者に対してほとんど熱が冷めていた。理由を聞くと、自分の愛情に対して一切応えてくれなくなったからだという。 奴は自分を経験がない故に不器用だといいつつ、最初は熱々でやけどしそうな愛を与えてきて、彼女もそれに応えるように、やけどするほどの熱い愛を返した。そんな強い愛を送り続けてきた彼女だったが、たった二ヶ月で奴の返事もそっけない態度に変わり、やがて反応すらもなくなったという。 私は、その彼女の崩れかけの恋心に、とどめを刺した。再起不能になるまで、木っ端微塵に破壊した。

態度がそっけなくなる前に、奴は結婚について「こんな人間とやり取りしていたら苦労するぞ」と両親に云われたことをそのまま彼女に伝えた。彼女は多数派の考えであればそれが当然だと云い、少しも傷つくことはなかった。むしろ、そうはっきり伝えられたことで、この恋はこれが潮時だと思ったという。

私は、そんな彼女へそそのかしをした。「もう、ええでしょう」、と……。

――そして彼女は、「こいつも私の愛の重さに耐えられないような雑魚だったのか」と裏切られたことへ対して嘲笑を浮かべ、奴との思い出の写真、思い出の品を全てゴミ袋に詰め、生ゴミとともに棄てた。 彼女と奴が笑顔で写った写真、彼女が奴と結ばれるきっかけとなったぬいぐるみは、今頃塵芥と共に真っ白な灰となっていることだろう。この愛は、いくら願おうが、もう二度と戻ってこない。ゴミを収集所へ出し終えた彼女は、「清々した」と冷ややかな笑みを浮かべていた。

これを聞いたとしても、皆は私が、間違ったことをしたとでも云うのだろうか。私を極悪人だと思うなら、思えばいい。「永遠に愛する」などと嘘をほざいて、見事に裏切るほうが極悪人であると私は思うので、勝手に悪者扱いすればいい。

終わったものはまた別の形で始まる。 私は彼女が「新しい始まり」を迎えられることを願っていた、願わなくとも、彼女は「新しい始まり」を迎えていた――。

20250111 法華経行者の冬は必ず春となるのか

はじめに

「冬は必ず春となる」という旨の内容を日蓮大聖人は書き残したという。私はそれを永らく至言であると信じていたが、日興上人、日目上人と続くこの宗門に入った法華経の行者は果たして春を迎えることができるのかどうか、宗門を覗く私の視界は暗くなり始めてきた。

一神教は破壊的カルトか否か

まず初めに、私はキリスト教ほどこの世界において大きく邪悪なものはないと思っている。キリスト教が真に世界を救うのだと決まっているのならば、我が国が二度核兵器の被害に遭うことはなかっただろう――長崎には教会も多くあるが、幾つかは木っ端微塵にされている――と強く確信を持っている。更に云えば――これを世界に公言した時点で、私はアブラハムの宗教信者の全てを敵に回すこととなる――、中東における戦争もむやみに起こってはいないだろうとも、強く思っている。

私はすなわち、一神教的思想を悪だと云いたいのである。 一つのものにこだわる時点で頑固になり、「井の中の蛙大海を知らず」となる。頑固で柔軟さのない人間であると云うだけで、人からは忌み嫌われる傾向にある。その上、その頑固な自分のことは認めてほしいが他は否定する、となると、嫌われたところで何も文句は云えぬのではなかろうか。挙句の果てには周囲から避けられていることを「忍耐の時」と開き直り、ますます頑固さを正しいとして強化させていく。 袋叩きに遭うのを承知で云うが、一神教的思想は、それがたとえ伝統宗教と呼ばれ何世紀も信じられてきたものであろうとも、私には破壊的カルトのそれと寸分も違わぬものに見えてならない。

法華経行者は濁悪の世を更に濁らせる

仏教でありながら、キリスト教のように他を弾圧することで自らを正当なものであると主張し、その結果出来上がった幾つもの分派を自ら粛清していく、それが日蓮正宗ではなかろうか。私は仏教なのにも関わらず一神教的思想を持つ宗派を永らく知らずにいたが、不幸にも実在し、私はその一員とまでなっていたのであった。 仏教とは本来決して一神教的思想を持つ宗教ではないはず、それでありながらそのような思想を掲げる日蓮系仏教集団。これこそ私の前述した頑固な「井の蛙」ではなかろうか。

カルト教団にいる人間は自分が鍋の中で丸茹でにされていることには全く気づかぬまま、死にゆくのである。私はそれを死ぬ前に気づけた故、ここに宗門を棄てることを誓う。

私は様々な宗教に真理を求めていたが、根本的な日本民族の精神を育んできた――良くも悪くも、と云っておこう――ものはすぐ身近にあったのである。異国から輸入された思想は所詮異国の思想である。日本民族の精神というものは――繰り返す、良くも悪くも、と云っておこう――、古来より神の道が築いてきたのだと、私は宗門に湯がかれている最中、奇跡的にも気づいてしまったのである。このまま茹でられて死すなど愚者の極みではなかろうかと考え、私は私を湯がくぬるま湯が熱湯に変わる前に鍋から飛び出した。

終わりに ――無知は恥である――

日本人の思想として、たとえ死生観が合致しなかろうとも、死が気の枯れたものであろうとも、今後私は神の道を頭ごなしに否定するような真似はやめることにした。まだまだ私も浅学な身である。神道の死生観に関して詳しく知識があるのかと問われると、ほぼ皆無に等しい。正しく知ることで私はそれを、信じるには至らずとも受容することができるのだと確信している、私という存在が日本民族である限り。

20250104 何かのために ―仲間との友愛―

※「20250514 小田島・守田の総括」より明記し始めたNull氏との出会いを記録した文章である。当時から今に至るまで、Null氏はよく私の異常さを受容してくれたな、という気持ちが尽きない。

理解有る仲間が共に居てくれるというのは、素晴らしいことであると、昨今の出来事を振り返ってはつくづく思う。

私は幼少期より、友というものは少ないか、あるいは皆無であった。 一般的に仲良くするような関係であったとしても、その友たちは私が本性をさらけ出した途端に全てが私から逃げるように消えた。 私は、ただ遊んで楽しいだけの浅薄な友など必要としていない。互いに感情を共有し、悩めるときも共に手を取り、前に進むことのできるような、むやみに遊ばずとも人生を楽しくするような深い繋がりの友を求めている。

人が普段より人生観・死生観について考え続けていると云うと、恐らく大半の人間は小難しいことを嫌って離れていくことであろう。私はそれを、幼少期の学び始める頃より行ってきたのである。道理で自分が友と呼べるような関係は、私にはほとんど居ないわけである。 随分と私は社会に適合できないものだ、と幼き頃は悩んでいたが、「神童も、成人すればただの人」ということの逆が起こったのかもしれぬ。今になり、私は相応の評価を受けるようになってきたと気づき、少しばかりそれを実感しては嬉しい気持ちになっている。

私は自分を評価されないことに対して精神を病み、今まで作り上げた自分の全てを棄てることを、何度繰り返してきたことだろうか。今となっては激しい後悔が募るばかりである。 だが、それを悔いたところで失われたものは何も戻らない。「壊れたものは再構築すれば良い」、と云う理解者A氏の言葉を胸に刻み、私はまっすぐに「新しい始まり」を迎え、歩んでゆくのである。

私はこのA氏を心の底から大切にし、共に手を取り合って歩んでいかねばならない。

20250101 何かのために ―雪の降る街を―

私が死に憧れを持ってしまっている人間だということは以前より変わりないが、それがあまりにも愚かな憧れと気づいたのは、つい最近になってからだった。東北において今から十年以上前に起こったことを考えれば私は自ら死へ会いに行かなくてもよいのだと、元日が近づき、かつ私が今東北の土地へ来ていることから、強く深く考えるに至った。今から13年前、東日本大震災は起こった。

津波や地震は、失いたくないものを無残にも奪い去っていく。失ってはならないものを、強引に壊していく。しかもその強奪の予兆は人類に到底予測できるようなものではなく、来てほしくないと願ったところで人類が地球上に生存している以上、どの土地においても必ず襲いかかる可能性を秘めている。対策は可能だが、逃げることはまず不可能である。

そんな失いたくとも失われていったもの達を横目に、私は死に恋い焦がれるあまり自ら死へ進もうと自殺未遂を幾度も繰り返してきた。 死とは再生である。死とは新しい始まりである。死とは生と表裏一体である。 そのことを思いながら自らの生を蔑ろにするという事は、恋い焦がれているはずの死を冒涜することに繋がるのではなかろうか、と僅かながら疑念を持ち始めた。その疑念が浮かんできたのが、数週間前の気仙沼は大谷海岸で、穏やかな海が、夕日に当たり輝いているのを眺めているときだった。

この地において、私は生命について、「大切で失われてはならず、かつ失いたくないもの」について改めて認識を持った。親族―一度たりとも会えたことはない―の墓前に花を手向けた時に大粒の涙がこぼれたのは、その新たな認識を持ててからだった。私は自分の考えの浅はかさを強く恥じた。

「大切で失われてはならず、かつ失いたくないもの」はいずれどのようなものでも朽ちていく。人間は必ず死ぬ、記憶は褪せる、物は壊れる。それらをいつまでも、できる限り朽ちぬように保守するのが、我々生きとし生ける者の使命である。朽ちてから悔やんだところで、それは既に手遅れである。 万が一朽ちていくものを延命できないのであれば、遺された意志を継承せねばならない。

東日本大震災の記憶がない少年少女は多く、これからは増えていく一方である。だが、昨年の今日には能登半島を中心に大きな地震があり、その後水害によっても石川県は被害を受けた。それを知らない少年少女も、これから増えていくことであろう。 私は生きて、その朽ちゆく記憶を、自分の継承できる限りで良いから伝えていかねばならぬ。

自分の力を未来の為、少しでも役に立てることこそが、「生」ではなかろうか。 私は死を望んでいる場合ではない。死を愛するからこそ、私は生きねばならない。