ボクがコドモの頃、映画館へは自転車で一時間かかった。そこはいつもガラガラで、ボクはいつもニ階席でふんぞり返って観ていた。「インディ・ジョーンズ」も「エイリアン」も「ラピュタ」も、そしてまだまだたくさんの夢が確かにそこにあった。ここでは仮に「トキワ座」と呼ぶ。
トキワ座はもう10年も前に廃館になった。最終通常上映がちょうどボクが実家に帰っていた時だったので、観に行った。ネタは憶えてない。ネタよりも、トキワ座があんなにぎわっているのを見たコトがなかったので、そこに驚いていた。普段から来い、という感じでビックリ。
トキワ座の最後の夜には「フィールド・オブ・ドリームス」が上映された。ああ、なんてロマンティックな夜だろう。参加できなかったのが悔やまれるような、いいハナシではないか。
その後、その辺りでは最大手のスーパーが新しい店鋪をオープンした。そこには映画館が入った。三館ワンセット、場内で区切られているタイプ。マイカルのような感じといえばいいだろうか。ここでは仮に「Pシネマ」と呼ぼう。
ボクはイマでも、このスーパーからなんらかの圧力がトキワ座にかかったのではないかと踏んでいるのだが、住んでもいないのに口を出すものではない。それに、せつなさはそんなコトではごまかされない。
そんなある時、実家に帰った際、父親が映画を観に行こうと言い出した。もちろんPシネマである。一もニもなく承諾し、出発。もちろんボクの目的はその新しい映画館。映画を観たかったというよりは、Pシネマを観たかったのだ。
入って狭さにビックリ、防音の悪さにビックリ。ただし、同情の余地はあるレベル。どこにでも問題はある。そして上映が始まって音の悪さにビックリ。映写機にトラブルがあるとしか考えられないレベル。誰も何も言わないので我慢する。帰りにチクっと伝えてきたが、改善が見られたかどうかは疑わしいが、あれ以降、足を向けていないのでわからない。
ところがいちばん大きな問題はそんなコトではない。観客のレベルである。その映画が始まって10分ほどした時、携帯が鳴り響いた。むろんボクのではない。おーい、と思っていると誰かがカバンから取り出した。ああ、これで鳴りやむ。
ところがそう思った次の瞬間、ボクの予想は甘かったコトがわかった。なんと彼は話しだしたのだ。それも座席で。声を潜めるコトもなく。ボクはがくぜんとした。その行動にがくぜんとしたのではなく、それに対して無反応な周囲の観客にがくぜんとしたのだ。それを裏付けるように、また携帯が鳴る。今度はベツのヒト。勘弁してくれえ・・・
その時には、田舎者に携帯を持たせるとデリカシーのなさが際立つなあ、などと考えていた。映画館もきちんと指導するべきだ、とか昔はあんなコトなかったのに、とか。
その思いはここ数年続いていた。全てがPシネマの責任だった。トキワ座万歳、カムバックトキワ座。客は少なかったけれど、観たいヒトが観にきてた場所だった。そんな場所だったからこそ衰退し、営業が立ち行かなくなってしまったのだろう。でも、あの場所がその時とても懐かしかった。
でも、最近気付いた。あの、Pシネマのせいではない。問題はそこではない。
小学校低学年の頃、父親はよくボクをトキワ座に放り込んでどこかに行った。途中から放り込むのだ。そして途中で迎えに来る。その際に、父親は場内に呼び出しをかけたのだ。
イマ考えると最悪だな、と思う。当然(と言っていいと思う)ボクは入場時に上映していたシーンが来ても出たくないわけだ。ところが父親はもう帰る時間なのでと連れだすわけだ。呼び出されればコドモは出ていくしかない。二度三度と呼び出されてはたまらない。
親も親だが、それを受けるトキワ座もトキワ座だ、と断罪してしまうコトは簡単だが、そこにもためらいはある。あのシステムが、あの町をフォローしていたと考えれば、それはそのままあの携帯のシーンにもつながる。なんだかんだとあの町に愛着を持つ身としては、あそこにある限り、映画館とはこういうモノなのだ、考えざるを得ないのかもしれない。住んでもいないのに批判しても始まらない。住んでもいないのに改善しようなんてたわごとでしかない。
それでもPシネマには持てない好意がトキワ座にはある。ボクにはあの暗闇で観た夢が残っている。あの、夢だけが。
2002/6/20