古くなったモノを捨てる時はどうするか。ヒトによって違うと思う。自分では捨てたコトがない、というヒトもいることだろう。ボクはもう一人暮らしを10年以上やっている。当然ゴミだけではなく、色々なモノを捨ててきた。ただしこの際、「夢」とかは含まない。あれはモノではないから。
ここでは例えとして衣類に限定してみよう。例えばTシャツを何度も着ると首回りが伸びたり、穴が空いたりする。そのTシャツをどうするか。ちなみにボクはまず寝巻きにする。そのうちその用途でもちょっと・・・という状態になるので、そこでようやく御臨終願うわけだ。そこでボクはまず洗濯をする。捨てる前にはきれいにする。そしてきっちり干して乾いたら、ビニールにくるむ。それをおもむろに捨てるわけだ。それがボクなりの礼儀である。
ここで違う礼儀を紹介する。それは雑巾行きである。着れるだけ着たら、雑巾にしてそこら中を拭きまわる。資源を無駄にしない、布の本質に立ち返った考え方で、これはこれで礼儀だと思う。ボクのとは違うけれど。
僕の考えの根っこにあるのは、モノは何のために生まれたのか、というコトだ。つまり、素材は様々な可能性を持っている。その素材から、なぜ、そいつはTシャツになったのか、というコトを考えるワケだ。もしかしたらそいつはTシャツにはなりたくなかったかも知れない。布地業界での花形はむしろパンツなのかも知れない。Tシャツとしてデビューを果たしたあとも、ずっとパンツに憧れを持っていたのかも知れない。そんなコトはボクたちにはわからない。ボクたちに分かるのはただひとつ、そいつがTシャツとしてボクらの前に現れた、というコトだけなのだ。
考えてみると自然のモノに対しては、ボクたちは大概ひどい扱いをしている。蚊が刺したあとかゆくなって膨れるのは、“刺したから、病気とかするかもよ。気をつけてね”というイミのはずだ。でもボクらは平気で“かゆくさえならなければ、いくらでも吸っていいのに”などと言う。風邪薬が眠くなるのは、眠るのがいちばんの治療法だからだ。なのにボクらは眠くならない風邪薬を求める。そんなコトはココではどうでもいいのだが、ヒトはそもそも論に反抗する生き物だと思えば良い。
むしろココで言う自然のモノとは農作物や植物・動物に類するモノだ。つまりひまわりの種はハムスターに食べられるために生まれてきたワケではないし、犬は芸を覚えるために生まれてきたワケではない。それが自然に対してのひどい扱いだ。でも、コレはボク的には弱肉強食の一環だと思っている。つまり、こういったコトも全て自然なのだ、と言うコトだ。
では、自然でないものとはなんなのか。絶滅種などの問題も基本的には自然淘汰だとボクは考えるのだが、その場合、人間の介入は自然ではない。それは人間のエゴに過ぎない。この流れで考えると、人間の決めつけによって生まれるモノが自然ではないモノ、というコトになる。
つまり、“人間がその役目を定めたモノ”が自然ではないモノなのだ。例えばやかんに水を入れて、火にかける。その瞬間にその水は風呂の湯ではなくなる。それが日常生活に潜む役目決定作業。そうして役目を決定してしまったモノたちに対しての責任を取りたい、とヒトであるボクは考える。Tシャツとしての役目を与えられてしまったら、Tシャツとしてのシャツ生を全うさせてやりたい。Tシャツとして生まれて、雑巾として死ぬなんてのは可哀想すぎる。
やかんの中のお湯が、ラーメンになりたいのか、コーヒーになりたいのかまでを考えてやる必要はないけれど、少なくとも“御役目御免”はキレイなカタチで迎えさせてやりたいと思うのだ。それが“モノ”に対する礼儀ではないだろうか。ボクらはもうコドモではないし、自然物のように、役目が決まっていないというワケではないのだから
2002/2/9