誰しも小中高で書かされたと思う。その例にもれず、ボクも書いた。何かっつうと感想文なのな。ちょっとはバリエーションを持て、がっこよ。
まあ、よい。そんな嫌いじゃなかったから。本を読むのも好きだったし、モノを書くのも好きだった。中学の頃から、クラス発表用の戯曲なんかを書いたりしてたのだ。
でもね、でもでもね、あれには大きな落とし穴があったでしょ? 覚えてますか? 当時の自分のコト。ボクは正直なトコほとんど忘れてしまいました。んーなね、昔のコトは忘れるに限りますよ。恥しか積み上げてない。覚えているのはツッコミどころだけ、というていたらくですわ。ああ、ネタがそれた。
つまり、ポイントは、「この感想文を読むアンタ! アンタはこの本読んだのかね?」というところなのだ。具体的に言うと先生とかね。課題図書ならまだしも、自由選択で生徒がてんでんばらばらに読んでくる本を全部フォローできるのか? 今ならわかる。当然答はひとつしかない。
そうすると、“あらすじ”が必要になる。長篇だとそれだけで二〜三枚は埋まる。ま、めんどくさがりどもにしてみれば、あらすじで埋められるのは願ったり叶ったりなのか、喜々として埋めてたなあ、みんな。一文ごとに改行したり、句読点がやたらと多かったりしてた。今ならもっと効率良く書けるだろうけど。あー、でもあいつらに“文章を書く”という習慣があるとは思えない。あっ、そうか、今はメールが結構流行ってるから、文章をタイピングするコトぐらいは誰でもやるのか。そうすると、チカラの抜けた文章でもってものすごい読書感想文を仕上げてきたりして・・・うわっ、すげっ。想像しちゃった。
他、理屈として考えれば、“自己表現”の場である、という考え方もできる。つまり、あらすじとか、モトネタにたいする言及はなくてもよい、そこから何を感じ取り、どういう思いを抱いたか、ここが大切なのだ、という考え方。つまりモトネタは知らなくてもよい、ということだ。ボクが国語教師なら却下する。コミュニケーションの素材として使用できる可能性があるから。
さて、思い出話。中学の頃、ボクは二回か三回はカフカの「変身」で書いた。好きだったのだ。なぜ好きだったのかはよく分らないけど、今でもカフカはたまに読む。同じ本で書いていいものかどうか、という議論があったかどうかは覚えていない。
当時人気があったのは、やはり薄い本だった。カミュの「異邦人」とか、ヘミングウェイの「老人と海」とか。同じ並びで「変身」も人気作だったと思う。よく覚えてないけど。
しっかし、ヘミングウェイはともかくとして、カミュとカフカはおおよそ読書感想文の素材には向かない気がするな。今さら興味持ってきた。ボクはどんなことを書いていたのだろうか。覚えちゃいないけど、ちょっと知りたい。でも、ちょっとだけ。
また、読み返してみようか。今度は国語教師な気分になってみようか。でも、自分がその担当だったら、出来れば不条理モノの読書感想文の評価はしたくはないなあ。
でも、当時に今の状態で戻ったら、絶対困らせるコトを目的に本を選びそうだ。うわっ、戻りてぇ。