「A.I.」 池袋東急 2001/7/4 12:55

 いやは。公開間もないとはいえ、平日だし。昼間だし、軽く昼飯でも食ってから映画館に入ればイイや、と思ってたのですが。いやいや、エレベーター前にヒトが溜まってますよ?何ごとですか、コリは?

 と、動揺しながら取り敢えず、飯も食わずに現地いり。列の最後尾に着き、チケット売り場に向かう。並んだ頃はまだ、“ただいまお座りになれます”の札が出てたのに、チケット購入時には取り外されているし。こんなビビリが入ったのは久しぶりです、って感じ。しかも、「この映画は大変静かな映画ですので、ロビーでお待ちのお客さまはお静かに願います」との札も出ている。こっちは期待感を煽る。見たことないよ、こんな札。んで中に入り、かろうじて中程のはじっこをゲット。あー、よかった。
 周辺が学生(高・大)とおばさまがたにて占められているので、多少うるさいのが気に障るが、始まるまではいいだろう。しばらくウォークマンを耳にぶち込み読書。そのうち暗くなり、CMが始まる。・・・うるさい。予告になってもまだ中入ってくるおばちゃんとかいるし、しかもおともだちと「どこか空いてない?」などと会話をする。まあまあ、予告が終わるまでは。・・・よしよし、大分静かになったな。まだ、何か聞こえるけどね。

 映画自体はシンプルに言えば「おもしろかった」になる。

 ただし、いつものスピルバーグにいう「おもしろかった」とは意味が違う。いつものスピルバーグなら、もっと「人間」について描き込んでいるはずだし、「人間」対「その他のもの」という図式をきっちりと使用してきたはず。そうでないヒューマン・ドラマの場合、双方の意志をきっちりと描き込んできたはずだ。「E.T.」にいたっては「その他のもの」の意志までも描き切っている。愛についてスピルバーグが描く時、そこには片手落ちなどなかったはずなのだ。

 しかし、今回は違う。メカの愛を描く今回、人間の愛はほとんど登場しない。しかも、そのメカの愛はプログラムされたものだ。そこに愛はあるのか?ある。それもありあまるほどの愛が、スクリーンから溢れ出てくる。ある意味残酷で醜いほどの一方的な愛。スピルバーグが選びとった手段とは思えない。では?
 答はひとつしかない。そう、スタンリー・キューブリック。彼自身、この映画がスピルバーグ・テイストにより近いことを認めていたと言うが、それは映画化の際のタッチのことであって、脚本化の際のそれではなかったと思う。映画の表層的なタッチ。物語を物語として感じさせるための才能。近年のキューブリックは、むしろシーンの積み重ねでひとつのイマジネーションを紡ぎ出す(ように仕向ける)手法を得意としていた。ま、昔からそうだったけど。でも、ここではそうはしたくなかったのだろう。極端なまでに「物語」を意識したそのタッチは巨匠の新境地を確かに感じさせるものだ。コレをキューブリックが撮っていたら、と考えないわけにはいかない。

 そんな妄想をさておけば、これはスピルバーグの映画だ。役者のキャラに頼らない演出、象徴の使い方、その他。別にハーレイでなくても、ジュードでなくてもよい。彼等であったのは、“一番上手くできるから”という理由でしかない。女神の崩壊も、今までの文脈を乗り越えてはいない。これについてどうこう言うよりも、スピルバーグはここを経て、どこに向かうだろうか、を考えたほうが有意義。でも、それは各人に委ねられるべきだろう。

 それと同時に、ボクたちはこれで、キューブリックについて考えるのをやめるべきだと思う。「A.I.」はそれだけの礎になるべき作品だと、そう思う。未来を描くための、つまりS.F.を創るための。ここから始めよう。もう手塚治虫を忘れよう。世界は「A.I.」を迎えてしまったのだから。メカが裏側込みのAIを手にしてしまった以上、ボクたちはもう、のほほんとしてはいられない。

 

 

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