公開当初から「観なきゃ」とか「観ておかなきゃ」という「観たい」とはちょっと違う思いがあった。おそらくある種のエポックになる作品だという確信はあったのだ。ただ、監督がクリス・コロンバス(ホーム・アローン)だけに、ただのヒューマン・ドラマに仕立て上げられるのではないか、という危惧もあった。テレビでもイイじゃない、というような映画。
まだボクは原作を読んでいない。文庫になったら読もうと思っているので、おそらくはまだ読まない。だから原作の持つナントカが損なわれている、とかそういったコトは書かない。どのみちどうでもイイし。それに原作好きが映画化作品を観て気に入るワケがない。
文字には無限のイメージがある。誰でも一度読んだ本を読み返して新たな感動を得たコトがあると思うが、それは自らのイメージ喚起が以前とは違ってきているからだ。つまり文字列にイミを持たせるのは読み手であり、結果、100人いれば100通りのハリー・ポッターができあがるだろう。生きるモノの想像力は無限にある。
原作好きがいちばんカチンとくるのはおそらくは、無視と改竄であろう。ジブンの好きな部分を無視し、あげくの果てには変更してつじつまをあわせたりする。最近テレビドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室〜」でも使用された手法なのだが、視聴者層を考えて原作の小学生を高校生に変更して脚本化した。信じがたいことだが、ハリー・ポッターの映画化計画の際、監督候補のひとりからまったく同じ案が出されたらしい。つまり、アメリカン・ハイスクールに置き換えるというコトだが、その監督って誰だ。教えてくれたらその監督の映画はもう観に行かないよ。
さて、長々と原作から映画へのハナシをしたが、今回コロンバスが採った手法はどれだったのか。そこにはなぜこの映画が原作好きにも受け入れられているのかのヒミツが隠されている。
コロンバス監督の「ハリー・ポッターと賢者の石」はつまり、原作を読んでいたコロンバスが、その時にアタマの中に創り上げた「ハリー・ポッター」なのだ。それを作者であるJ・K・ローリングが補完してこの作品は完成した。原作好きたちにしてみれば「ハリー・ポッター」についてクリス・コロンバスとおしゃべりをするような気分だろう。
で、肝心の映画の中身はどうだったのかというと、言うべきコトはあまりない。言いたいコトはいっぱいあるけど、言うべきコトはあまりない。言いたいのはやはり、省略されてしまったのであろう部分。冒頭の“可哀想なシンデレラ”の部分とか、もっと長くてもよかったと思う。実際映画は二時間半だけれど、三時間以上あってもよかった。必要ないと判断されたから捨てられたのであろうし、やはり必要と感じられるのであればディレクターズ・カットが出てくるだろう。それはイマはまだわからないし、ハッキリ言えばどうでもイイよ、そんな細かいコトは。
あとはやはり、風景だろうか。CGも目立つけれど、イギリスの風景がとてもキレイ。「うつくしい人生」とはベツのイミですごくキレイだ。映画にかこつけたツアーを旅行会社がよく組んでいるのを目にするけれど、それもイイかも、と思ったりする。行かないけど。
役者がイイのはもう当たり前な世界。スピルバーグ映画の役者のように、きちんと適切なシーンで適切な演技をする、適材適所で必要十分。すべてがメイン三人の周りを彩る色になる。溶けていく色と風景。魔法のチカラが働いているとも思えてしまう。
もうすでに「2」が製作されているようだ。同じキャスト・同じスタッフで創られるのなら、ゼヒ観たい。それまでには原作も読んでおきたい。そして魔法のチカラで、コロンバスや役者たちとわいわいやりたい。
2002/1/24