今連載中の「YASHA」のスタイルは、ほぼ前作の「BANANA
FISH」を踏襲したものだ。と、つねづね思っていたら何とこの二作、地続きの世界であったということが発覚。びっくりした。
しかし、このヒトの作品には不思議な地続き感がある。なんだかウィルス戒厳令の下でも桜華学園では演劇部が「桜の園」をひっそりと上演しようとしていたりするような。どこかではきつねがはしゃいでいるような。不思議な感覚。そんなことあるわけないのに。
で、ここは「カリフォルニア物語」。この作品は、冒頭の二作とは地続きである。登場人物が一部、重なっているが、それだけではない。この作品にはやはり、この作家の基本がつまっているのだ。
基本という言い方で伝わらなければ、“空気”といえば伝わるだろう。どことなくひんやりした、それでいてよそよそしくはない、独特の空気。シリアスなものを描く少女漫画家には、わりとこの方向を向いたヒトが多い気がするが、このヒトはやはり抜けている。そしてその後の作品にも同じ匂いがしている。
このヒトにはまったのはわりと最近なので、以前の作品は全て文庫で読んだ。フツーの単行本で買ってるのは「YASHA」だけだ。どれもデカいサイズで読みたいが、うー、収納スペースが。
で、この作品。番外編「マダム・ブレルの人魚」は放っておいて、ここには“ヒトとヒトの関係”が描かれている、といっていいと思う。そしてストーリーとテーマを両立させるために物語構成上極端な方式を取っている。それはメインキャストを殺してしまうというものだが、コレは意外と少年マンガには少ない技法なのだ。誰も死なない、幸せな大団円というのが少年マンガの王道。その道には圧倒的に反している。イイとかワルイとかじゃないけれど。
ボクは子供の頃から、姉の持ってた「花とゆめ」が好きだった。パタリロから入ったのだ。その後柴田昌弘にはまり、和田慎二にはまり、少女マンガというか、花とゆめ系は好きだった。あまりそこからの広がりはなかったけれど。考えてみると少女マンガにはああいうオチが多かった気がする。「紅い牙」しかり、「スケバン刑事」しかり。
死んでほしくはない。いつだって愛着があればあるほど、生き抜いて幸せになってほしい。ボクはいつだってそう思いながら物語に接する。読者としても作者としても。ただ、それだけがハッピーエンドではないことも知っている。つもり。たぶんね。
このラストシーンはそのひとつのカタチだと思うのだ。悲しみと、そこを乗り越えていく強さ。さしてその強さを支える絆。幸せになって欲しかったとは思うけど、しょうがなかったんだとは思わないけど、いいんじゃないかなあ、なんて・・・思えるかっ。
せめてお気に入りのスウェナが、この後は幸せになることを祈るばかりだ。