第25回 杉浦 忠氏死去
  • 某ナベツネ系テレビで野球のワールドカップの模様を中継している。長嶋茂雄氏がゲスト解説をしている(台湾から招待されているらしい)。昨日の放送中に「杉浦忠氏急死」と言うニュースがあった。「えっ?」と言う驚きである。
  • 杉浦氏は現在、九州朝日放送(KBC)の解説者をしている。今年から始まったプロ野球マスターズリーグ「大阪ロマンス」の投手コーチを担当している。先日のニュースで、それの特集をやっていた。鳴尾浜球場(タイガースのファーム球場)で練習風景で指導している杉浦氏が映っていた。マスターズリーグの遠征で北海道へ来ていた。滞在先のホテルで急性心筋梗塞で亡くなったから驚きである。
  • 私自身、現役当時の杉浦氏は知らない。杉浦・長嶋・本屋敷の立教トリオで東京6大学野球のヒーローだった(他に大学野球のトリオとして法政の田淵・山本・富田が有名)。昭和33年南海に入団。その年27勝して新人王を獲得(セは長嶋)。翌年38勝4敗で南海悲願の日本一を達成。日本シリーズで宿敵巨人に4試合に投げ、4連勝をする。歴史の語り草になっている。南海の黄金時代を支え、杉浦−野村のバッテリーは、阪神江夏−田淵がでるまでの素晴らしいものだった。
  • 私が知っているのは、南海監督時代だ。チームは晩年Bクラスで、現役時代の常に優勝を争うのと異なっていた。監督時代の選手ででてくるのが、門田博光・ドカベン香川ぐらい。昭和63年に親会社の南海電鉄がチームを身売りという事態になり、南海最後の監督になってしまった。「いってきます」という大阪球場最終戦で言った言葉はあまりにも有名である。チームは九州博多へダイエーホークスに形を変えた。九州に10年ぶりに地元球団ができた。ライオンズが所沢へいってしまった。福岡ダイエーホークス初代監督として1年した後、フロントで4年いた。監督時代は本当に悲劇だったと思う。
  • 98年大阪球場さよならのイベントにいった時に杉浦氏をみた。やせて紳士的な感じで話し方もやさしそうな感じだった。サイン会の時にもらうことができず、あとで「すみませんサインお願いします。」と言ったら、「みんなが欲しがるからサインかけない。」と断られたのを覚えている。イベントのために鶴岡一人氏が来たが、体調がわるく無理をして来たというだった。鶴岡氏が話したら退席した。その鶴岡氏も去年3月に亡くなった。イベントの締めの言葉を(OB会長である)鶴岡氏がしなければならないが、かわりに杉浦氏が担当した。
  • 杉浦氏が現役時代の古い写真を見た時、南海ホークスのユニフォームが白と深緑で選手が紳士的に見えた。一人だけ紳士的でない人がいたが。
  • 杉浦氏は66歳でなくなった。立教の同級生長嶋茂雄は今シーズンで監督業から降りた。同い年で、高校から野球界に入った西鉄の稲尾和久氏、テストから入団した野村克也氏らがいる。本当の突然の死で驚いている。ご冥福を申し上げます。

<4ch>のトップに戻る