第22回 第2次長嶋ジャイアンツ
  • 突然、2001年9月28日に、巨人軍長嶋茂雄監督が突然辞任した。マスコミは勇退と報道しているが、あの人に対しての配慮だろう。Jリーグ人気で野球離れを少しでも食い止めようと巨人軍は「ミスタージャイアンツ」長嶋茂雄氏を13年振りに監督として呼び戻したのだ。そこまではよかった。巨人は、国民的スターである長嶋さんに恥を欠かさないように球団の威力で巨人有利な制度に変えていってしまった。抵抗するパ・リーグには「反対するのなら1リーグにするぞ」と脅した。豊富な資金を武器にして補強をし続けた。FA制度を作り(選手会が言ったというが。)落合、広沢、川口、清原、工藤、江藤など他球団のエースや4番バッターを獲得していった。トレードで石井・河本・メイなどを獲得。ドラフト制度に大学・社会人に逆指名制度を導入をし、1・2位には必ずと言ってもいいほどこの逆指名を使い、上原・二岡・高橋由・高橋尚などを獲得した。他球団は、金が巨人ほどないので高校生をとるしかない。札束攻勢で行くと負けるからだ。まともに獲ったのが松井ぐらいだ。打線と先発投手陣の名前はいつもオールスターゲーム。この金満補強が成功とはいけなかった年がある。1997年は失敗だった。33億円つぎ込んで補強をした。FA_で清原を獲得し、落合を放出。トレードで石井・ヒルマンを獲得して万全かと思ったら、開幕戦で見事に打ち砕かれた。それが、野村ヤクルト再生工場だったのだ。斎藤雅樹が広島を戦力外になった小早川にホームラン3連発を食らい沈没。それ以降、いい活躍ができなくなった。清原を4番に持っていくが打てない。ルイスと言う外国人は途中で退団。ヒルマンはちょっと投げただけ、最下位を走るという状態が続いた。そのヤクルトの野村克也監督が長嶋巨人に対して執念を燃やして戦った。カネをかけないで他球団を戦力外になった選手を再生させた。1997年が象徴的だった。
  • 現役時代「実績の野村、記憶の長嶋」と言われる活躍だった。野村が打者の成績としては長嶋より上だった。しかし、長嶋にはマスコミの力があったからだ。巨人は読売グループ。野球中継が全国放送で、新聞も取り上げる。長嶋が何をしても新聞記事になる。悪い記録でも、珍言でもだ。野村がいくら頑張っても新聞の片隅のたった1〜2行の記事になってしまう。「長嶋はヒマワリ、私は月見草」という言葉あまりにも有名だ。長嶋に対する執念に加え、巨人に対して執念を燃やしたのが1993年開幕戦(巨人-ヤクルト)で終盤までヤクルト優勢が、篠塚の「サヨナラファールボール」によって負けた。「セ・リーグに来てみて、それほど強いと思えない巨人にどのチームも勝てない理由がわかった。」と試合後のコメントが打倒巨人、打倒長嶋の思いが強くなってしまった。
  • 野村はいろいろした。長嶋が「メークドラマ」という造語を作ったのに対し、野村はメークをローマ字読みして「マケドラマ」と言った。シーズン中にもかかわらず日本テレビ以外のテレビ局に出演して、長嶋批判をしまくった。夫人も出した。息子カツノリをヤクルトに入団させた。ジュニア勝負に出たのだ。長嶋ジュニアはプロ野球界で低迷している。ヤクルトから巨人へ追い出した。引退して、俳優・キャスターをしている。まだまだでてくる長島三奈さんはテレビ朝日社員としてスポーツキャスターで登場。正興さんはレーサーとして活躍しているが、ビールのCM登場。野村家もカツノリ夫人を出してきた。
  • 「あの戦力で勝てないのはどうしてか?」という疑問がついた。監督が長嶋さんだからとか中継ぎ以降が駄目とかいろいろ挙がってくる。あの長嶋カンピューターは、たまに狂うから面白い。98年に辞任騒動がでた。「後任森か?」とでたほどだ。「辞めるタイミングをいい形にしないといけない。」のが実情だ。変に辞めさすとファンが許さないのだ。退場処分にならない。今年森監督が退場になったとき「どうして長嶋さんは退場にならないのか。」とコメント。抗議で試合を中断させたのは試合進行を妨げたからという。1998年ガルベスが甲子園の巨人戦で審判に対する侮辱行為。その2日後の乱闘事件のけじめをつけて丸刈りをした。
  • 会見で「世代交代」と発言していたが、開幕戦のバッテリーが象徴的だった。「21世紀は若い人に・・・」と言っていた様に上原−阿部を起用した。この言葉が何か意味をしていたことが会見のときに考えさせられた。歳が親と子ぐらい離れた長嶋と原。50代に適任者がいなかったことになる。ヒーローと呼ばれる人がいないんだろう。巨人の監督は、日本の総理大臣を決めるより難しい。皇族の結婚話程度のレベルになってしまう。
  • 中年のオジサン連中は、長嶋ファンが多い。V9時代に洗脳され骨の髄まで長嶋教信者だ。自身もやる気もない彼らが唯一の元気を与えてくれるのが長嶋なのだ。ダイエーの王監督との夢のON対決の実現するのに時間がかかった。巨人の優勝する可能性のほうが高く、ダイエーはAクラスに入るすら難しかった。20世紀の最後に遂に実現した。しかし、困ったことがある。外野のG党有名人がでしゃばることだ。
  • 辞任会見のタイミングも難しかった。シーズン終了後なら、解任か辞任と世間が受けてしまう。終盤に言うほうが勇退になる。2試合残っていたが、東京ドームと甲子園のゲームだった。どさくさに紛れて斎藤・槙原・村田真が引退した。世代交代の波に飲みこまれた。引退セレモニーの時に原コーチの「忘れません!」をタイガース戦での3選手の思い出について述べると「斎藤君うちをこてんぱんにやられたことを忘れません。槙原君85年のバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発、99年の新庄に敬遠球を打たれたことを忘れません。村田君甲子園のタイガース戦になるとうたれたことを忘れません」長嶋は東京ドームでプレーをしていない。後楽園球場では数多くの思い出があるだろう。展覧試合で永遠のライバル村山実からサヨナラファールボールなどがあった。監督時代は日本一の胴上げと去年の優勝胴上げぐらいだろう。94年も96年も中日とのナゴヤ決戦だった。最後の采配試合が甲子園球場になった。両軍負けられない試合、阪神は引退する和田豊の為に巨人は監督の為にという気持ちがあった。阪神桧山選手会長が花束を長嶋に渡した。やってほしかったのは、長嶋の高校の後輩である井上貴朗投手である。戦力外になってしまったが、プロ初勝利が98年東京ドームでの巨人戦の中継ぎで転がり込んできた。何かして欲しかった気がする。
  • 今後は巨人軍の終身名誉監督という肩書きだそうが、野球界のために何かして欲しい。この人に任しているばかりでは心配になってくる。いろいろな面でこれからの巨人がどうなるか楽しみだ。

<4ch>のトップに戻る