「ヒマラヤの小さな村に眠る岡本先生」〜 岡本先生ネパール・ツクチェ埋葬の旅 〜2009年12月24日〜2010年1月5日 |
<はじめに> | ||||||||||||
わたし達夫婦は西脇出身ですが、古くからのご縁で岡本先生のご遺骨を、ヒマラヤの
ダウラギリとニルギリに挟まれた『ツクチェ』という小さな村に埋葬して
まいりましたので、その顛末記をここに記させていただきます。 夫・裕之は、岡本先生の奥様「葉子夫人」と職場の同僚でした。 岡本先生の影響で、ネパールが好きになり、夫は4回・私は3回ネパールに まいりました。1996年に「かもがわ出版」から出版された、岡本先生の 著書『私のネパール』と、岡本先生が主人公モデルと なった小説『ツクチェの春』(吉開那津子著)がいつも道案内です。 2009年夏にもネパール行きの計画をたてました。最終報告を11月に 岡本家で行いましたが、リビングのいつもの椅子に座り、ニコニコ聞いて 下さった岡本先生ですが、そのご遺骨を、翌月12月27日にツクチェまで お連れすることになるとは、その時は夢にも思いませんでした。 12月13日・14日の『お別れの会』の時に急遽決まりましたが、 『坊主呼ぶな』『香典もらうな』『墓つくるな』が先生の遺言で、 その通りのお別れの会でしたね。 葉子夫人は、『ツクチェの土にしてやって。』と、ご遺骨の一部を 託して下さいました。 |
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<旅支度> |
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岡本先生がネパールの息子のように可愛がっておられる「ラジュンさん」
(ツクチェでいつも泊まられるシェルパ家の息子さん)が、ツクチェの村から
ポカラまで向かえに来てくれることになっている。とにかく、私たち夫婦二人
だけでポカラまで行かなければならない。2年前の旅の資料を読み返して、
行程を練る。予算をたてて、今回は無駄な買い物は厳禁との誓いをたてる。 ニルガマリさん(岡本先生が33年前に出逢ったヒマラヤの少女。7歳だった 彼女も、今はもう40歳に。彼女の存在が、岡本先生の人生に温かな光を届けて くれた。彼女のことは、『私のネパール』の主軸となっているのでご存知の 方が多いと思います。)へのお土産、これが難しい。しかし、衣服が一番 役立つだろう。チョコレートも入れる。きっと、ニルガマリさんの子ども たちは、チョコレートなどはあまり口に入らないだろう。たまには味わって もらいたい。袋にたくさん入ったものにする。
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旅のはじまり〜カトマンズ→ポカラまで |
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旅のはじまり
さて、珍道中の始まりです。お調子者の私と夫のふたり旅、長くなりますが、13日間
どうぞよろしくお願いします ☆2009年12月24日(木) 午後5時50分西脇出発。9時30分関空着。10時30分タイ航空にチェックイン完了。 10分後、空港内のまだ開いている店をみつけ、生ビールを2杯飲んでやっと裕之さん旅モードに。 私もここまで来てやっとこさ背中にしょっているものが一つずつ軽くなってくる気がした。 12月25日(金) 午前0時30分出発時刻になってもタイ航空、整備が終わらずピクリとも動かない。 不安だが、「見切り発車するよりいいわ。」と待つこと30分。午前1時ようやく離陸。 予定通り午前5時バンコック着。どうやって飛行機で飛ぶ30分の短縮が出来たんやろう? 待ち時間5時間余り、裕之さんはいつも通りウイスキーを物色。重たい瓶と液体を 手荷物にして歩いても、税金払わんと飲むウイスキーがとりわけうまいらしい。 バンコックの空港はいろんな言語が行き交って面白い。 10時35分予定通りカトマンズに向け出発。窓ぎわの席が取れなかったので、 インドのタライ平原の向こうに現れるヒマラヤの素晴らしい光景は今回見ることが できなかった。残念。 12時50分すべるようにしてカトマンズに着陸。うまいなぁ。タイ航空はいつ も綺麗に着陸だ。 わあ!懐かしいカトマンズの空港。ほわんとして、埃っぽくて、トイレもボロイけど ええねん。やっと来た!40kgの4つの荷物を二人でかかえて、背中にも手荷物の 大きなリュックを背負って、えっこらせと空港の外へ出ると、ネパールの人・人・人。 すごい客引きと出迎えの人。 客引きかきわけて出ると、バサナホテルのウデイさんが迎えに来てくれていた。 2年前と同じ笑顔を見てほっとする。すぐ車(軽四のワゴン)に乗り込み、あいさつ。 事前に何度も頼んであったトレッキングパーミッション(トレッキング許可証)を イミグレーションオフィスに今日の2時までに取得しにいけるかどうかがとても 気になる。気があせる。(無いとジョムソン空港から出られない。) 今日は金曜日。カトマンズの事務所は2時までしか開いていないと旅本に書いてあった。 ウデイさんに、「パーミッション、取れますか?」と聞くと、「大丈夫です。」 「あと30分しかないけど・・・。」 「取れますよ。」ウデイさんの日本語はなかなかだ。まっすぐ直行してくれるものと 思っていたら、「ちょっとホテルに寄ってから。」と言う。ホテルに寄り、やっと事務所 に到着。 2時05分。アウト。閉まっていた。明日、土曜日は休み。ポカラの事務所も休み。 ツクチェに行かれへんやんか!『どないしてくれるねん!』播州女、心でわめく。 事務所と交渉。「係官はもう帰った。ダメ。」「5分だけやんか何とかならんの?」 「ならへん。」「どこ行くの?」「ムスタン街道のツクチェ。」「それ、どこ?」『おい、 こら、ムスタンへ行くアンナプルナのメイン街道やないかい。素人の私でも知ってるわい。 プロが何言うてのん!』(もう心は姐さんになってる。) 「地図ある?」「これですわい。」(地球の歩き方の地図を見せる) 「ふ〜ん、ツクチェて、どこ?」「ここや!」「ジョムソンよりポカラ寄りやな。 せやったら○□△事務所に行ったら何とかなるかもしれへん。」やれやれ。 外に出るともう3時近い。ホテルの車はいない。オフィスは4時くらいに閉まるところが 多いので、また気があせる。なのに、ウデイさんは歩いて前を行く。 「タクシー乗りましょう。」「近いですよ。」 裕之さんは、ウデイさんに任せろと言う。観念して後を行く。どんどん流れる空車の タクシーを横目に見て20分くらい歩いてやっとオフィスに着く。 さて、手続き。 しかし、4000ルピー(約6000円)の手数料がドルで支払いできないとわかる。 もう3時20分だ。すぐ裕之さんとウデイさんが両替に行くことになる。「絶対、 タクシーに乗ってよ!」と念を押す。二人を待ちながら英文の用紙につたなく書いていると、 そばに居た中年のネパール人のおっちゃんが、親切に「ここは、これでなあ、、、」と 教えてくれる。ありがとう。4時前、ふたりは滑り込み。手続き完了。あーよかった。 ネパールの洗礼を初日に受けて長い長い一日目は夕暮れを迎えた。しかし考えてみると、 人任せにして時間に余裕の無い中で何とかしようとしたのがいけなかった。 ファックス・メール・電話で何度も確認済みのことではあったけど。岡本先生は、 「旅はなりゆきまかせ。」と言われていた。これやなぁ。ウデイさんのおかげで ハプニングに対応できたんだ。感謝。 ネパールは行ってみんとわかれへん。 バサナにようやく落ち着いて、裕之さんはやっと税金なしのウイスキーを飲んで 一息つく。葉子先生に無事着いたと電話。えらいクリスマスだった。よう来れた。 ☆12月26日(土) カトマンズの空港は霧の中。グナエアーは9時40分出発予定が11時00分に なるとか。チェックインカウンターで私の拙い英語で確認。ラジュンさんに遅れると 電話するが、通じない。ポカラで待ってるだろうに・・・。待合室は様々な肌の色、 言語の人々がゴチャゴチャと待っている。 ふと、10社ほどの小さな航空会社の カウンターにワサワサと並ぶ人々の列の中に、岡本先生の姿を見たような気がして、 じっと目をこらす。いかにもそこに居られるような気配がした。ドキッとした。 自分の願いの反映にしてはあまりにもリアルだった。切なくて、嬉しくて、不思議。 アナウンスなどは無く、係官がわめくのを聞き分けて飛行機に乗り込まなくては ならない。聞き逃すまいと神経を使う。それにしても眠い。ここ二日の疲れがどっと 押し寄せる。 10時20分、滑走路への出口に殺到する人々をかきわけ、 裕之さんに手を引かれ、ガードされて飛行機に乗り込む。 18人乗りの小さな飛行機。台湾か香港あたりから来た女性 のグループと一緒。みなすごく朗らか。機内で写真を仲間同士 撮っているので、わたしもシャッターがおりる瞬間にピースを して入ると、みな大笑い。関西人やとわかってしもたかな?
ラジュンさんはずっと待ってくれていた。 |
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ポカラ→ジョムソン→ツクチェ |
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12月27日(日) 朝から『バンダ』(ゼネスト)でネパール国内、飛行機以外すべて交通機関が ストップ、動かない。ネパールは政権が安定せず、マオイストと呼ばれる人たちが 政権を離脱して混乱している。 朝、4時半起床。ホテルから空港まで歩いて行く。40キロの荷物は、 ポーターさんを頼み、ラジュンさんと二人で持ってくれる。途中で、スト破りの タクシーが通りかかり、乗り込む。 本来ならスト破りなんて嫌いだが、(イタリアの名画『鉄道員』にもスト破りで てきたなぁ。)私たちツーリストにとって、バンダは本当に困る。そのタクシー、 ポカラ空港の前まで来たら、プスンとエンジンが止まってしまい、動かなくなった。 きっと、岡本先生がスト破りを叱っているのだ。私ら送っといてから。 (ようこんな解釈できるな。) 空港は霧の中。飛行機は飛ばない。2年前はここで3日間、ジョムソン行きの 飛行機が飛ぶのを待った。風と霧で飛行機が飛ばないその3日間、奥さんの ルパナさんが、遠路の客を待っているだろう、食事の都合もあるだろう、心配して いるだろうと、村に一台しかない無線電話に電話して伝えておいて!と何度か ラジュンさんに言ったけど彼は、「大丈夫です。わかります。」と言う。 「何で?」「飛行機、ブ〜ン、言います。」えっ?それでわかる?そんな世界 なのね。えらく感心したものだ。 待てば海路の日和あり。ラジュンさんといろいろ話す。ツクチェは温暖化で りんごの収穫量が激減し、今年は三分の一の出来だとか。去年の夏、ツクチェの 手前のマルファ村では、ツクチェピーク(6,720m)の氷河が崩落して 大洪水が起こったとか。村の橋が壊れて、1ヶ月間通行止め。次、大崩落したら、 村は危ないとか。背筋が寒くなる。 そこへブッディー君が私たちに会いに来てくれた。彼は、ラジュンさんの従弟で、 ポカラの大学で「山や森の勉強」をしている。苦学生だ。大学の成績が学年で 一番であれば、授業料がタダになるので、4年間努力して一番を通しているとか。 お父さんはもう亡くなっていて、ラジュンさんの家族の支援を受けている。 2年前と同じ服を着ている。この国で、親の支援なしに大学出るのはどんなに 大変なことか。 私は手荷物のリュックをつい無造作にボン!と足元に置いた。しまった! 『おい、そっと置いてくれ!』と岡本先生から言われるような気がしてリュックに 「すいません!」と謝った。 今年もこのまま待ちぼうけかと半ば諦めていたが、 11時30分ジョムソンに向け、4時間遅れで飛行機は飛んだ。すごい!ラッキーだ。 乗り込む時、ヒマラヤフライトの絶景、ダウラギリ(8、167m)がよく見える 左側シートを確保。ラジュンさんは、ニルギリが美しい右側シートに座る。 15人乗りの小さな飛行機はプロペラを勢いよく唸らせてアンナプルナの山々を かすめるようにして飛んでゆく。氷河を頂く山々の美しさはたとえようがない。 神々の峰だ。操縦席のパイロットの背中は頼もしく、乱気流もなく25分の フライトはあっという間に終わり、ジョムソン上空で急旋回して機首をグインと 急激に下げ、谷間の小さな滑走路に突っ込むように下降していった。ゴット〜ン! と着陸。(生涯で一番怖い着陸だった。) 荷物を受け取り、空港出口で例のトレッキング許可証を係官がチェック。無事通過。 よかった。 「わぁ、ジョムソンや!」ツクチェまであとちょっと。4時間も歩けば着くなぁ。 嬉しい!ほんまに・・・もうちょっとや。 空港前のホテルでチャーを飲み、休憩。ここからの道程の確認をする。 「ゆっくり、ゆっくり歩きましょう。」とラジュンさん。 午後1時出発。2年前は ここからツクチェまでジープに乗ったが、この度は岡本先生が初めてツクチェに 入られた時のように、カリガンダキ川に沿って歩いて行こうと二人で決めて来た。 一歩一歩、深く澄んだ自然を先生と味わいながら歩いて行こう。 (美しい心がけやな。)
ゆっくりする間もなく出発。日暮れまでにツクチェに着かないと漆黒の闇の世界だ。 ラジュンさんでも怖いという。 もうすぐツクチェという所で私たちの前に、大きな背負子にたくさんの木を乗せて 前かがみで歩く人を見る。すごく重そうだ。前のめりになっている。 「わぁ!ツクチェや!山の人や!」と、風景に馴染んだその「荷を運ぶ人」を写真に 撮ろうと足を速めた。小走りでカメラを取り出す。後ろから一枚撮る。服は汚れ、 ヨレヨレだ。失礼にならんよう、そっと横から回り込んでカメラを構えてさあ!という 瞬間、彼の手元を見て目と手が固まってしまった。 彼は・・・ピコピコ、携帯電話を操っていた。 私の足はフニャフニャなり、しゃがみ込んでしまった。お腹がヒクつく。 クッ、クッ・・・・。 「見てん、見てん、おっちゃん・・・・・携帯・・・。」裕之さん、みなしゃべれない 私から視線をおっちゃんに移して「わぁ。」と言った。「な、見た?」「見たか?」 「見た。」
ユキちゃんを抱っこして村に入る。村の人たちが見ている中、家の前に立つ スッパさん(ラジュンさんのお父さんで、岡本先生と心通じ合う盟友)の出迎えを 受ける。「ナマステ」。スッパさんは、タカリー語で 「オカモトセンセ・・・△×○□・・△○・・」と、岡本先生へのお悔やみと 亡くなったことが本当に残念で悲しいとおっしゃった。そう、伝わってきた。 涙がこみあげてくる。ラジュンさんに聞くと、「そうです。」と言う。 ラジュンさんの奥さんのルパナさんが笑顔であいさつしてくれる。思わす彼女を 抱きしめると、恥ずかしそう。台所に通され、温かいミルクティーをご馳走に なる。この家の味はネパールで一番の味だ。
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ツクチェ→チバン村、墓所 |
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12月28日(月) 8時起床。ゆっくり起きる。午前中、カリガンダキ川の向こう、「チバン村」 へ行く。岡本先生から、「是非あの古い村を見ておいで。」と言われていた村だ。 ラジュンさんにバイクで吊り橋まで一人ずつ送ってもらい、長い長い吊り橋を 渡って川向こうに着く。夏には川の水も増え、怒涛のように流れているの だろうなぁ。恐ろしい気がする。河原の上の山道を登っていく。 ニルギリ(7,061m)方向に歩いているのに、進むごとにニルギリは遠ざかり、 ダウラギリがすごく美しい。山に流れる小さな川の水は手を切るように冷たい。 氷が浮いている。空気は澄み、物音ひとつしない。
村から降りる途中で私の携帯が鳴る。娘からだ。アンナプルナのシ〜ンとした 山の中の呼び出し音はほんとに不思議だ。「お母さん、今どこにおるのん?」 「ニルギリの近所の山ん中。」「えっ?」絶句している。「ラジュンさんなんかなぁ、 ある日、友達から電話があってんて。『どうしてる、元気?いま何してるん?』て 聞かれたから、『ん?いま?冬虫夏草採ってるんや。あっ、あった!』言うてんて。 そこ、ダウラギリの下で標高4,300mくらいのとこやってんてぇ。山にへばり ついててんで。」と言うと、「信じられへん〜!すごぉ〜〜〜!!」さすがの 日本の若者もついていけない様子。
この地方の風習で、丸一日は遺骨を家の外に置かないと埋葬できない。(夕方に ツクチェに到着したので、今になった。) 昨日、やっとのことで無事ツクチェまで お連れしたのに、軒下にでもぶら下がっていて、万が一にも他人さんが「何やらええ 袋があるなあ」とホイッと持って行ったらアカンと、ラジュンさんにしつこく「人から 見えんとこに置いてね!」と頼むと、「ツクチェの人にそんな人は居ません。」と 笑われた。 さていよいよシェルパ家のお墓(りんご畑のそばにあるとか)に出発。 ラジュンさんが袋に入った遺骨を持って現れたのを見て、ほんまにほんまにホッとした。 家のそばに牛小屋があるのだが、そのちょっと裏と聞いて出発。 しかし、行けども行けども山道は続く。ツクチェは高度2,600mほど。 少し歩いても息があがる。4歳のユキちゃんはスイスイ登り、9歳のソニカちゃんは 私の様子を見ながら登ってくれる。フーフー言いながら、こっそり「どこがちょっと 裏や!」とぼやくと、いつもなら不平を言うと叱る裕之さんが 「ほんまになぁ。」と言う。 薄暗い崖の下や岩や石がごろつく道を小一時間ほど登ると突然、ドワ〜ッと広がる りんご畑に到着した。断崖絶壁の上だ。下を見るとツクチェの村が小さく見える。 高度3,000mはあるようだ。「え〜らい裏やったなぁ。」と播州弁で言うと、 ラジュンさんに通じてまた笑われた。ラジュンさんの日本語理解力、なかなかやんか。 スッパさんが、自分のりんご畑を案内してくれて、「あそこがうちの墓所です。」と 指差した。 「え〜!まだ登るのん?」りんご畑のさらに上に上がり、 やっと墓所に着いた。
「岡本先生には本当にお世話になりました。できるだけの事がしたいです。」と スッパさんが一生懸命に言われる。もうここまできてはお任せするしかないか・・・ と裕之さんと相談。 あれやこれやの末に、スッパさんが言われるような大きなお墓でなくて『シェルパ家 のお墓の半分くらいの大きさで、遺骨はその下の土の中に埋める。』ということに なった。坊さんはもう、しゃあない、おまかせします。日本の坊さんちゃうから ええやろ。(ほんまに?) ご遺骨はお墓ができるまで、シェルパ家のお墓に入れてもらうことになり、私たちの 手で納骨を済ます。 岡本先生は今、居候だ。右写真の裕之さんが立っているところ に建つ予定。 後日、ラジュンさんに、「でも、お墓が建って年月が過ぎれば、いったいこれ誰の お墓やろ?て言われるのんとちがう?」と言うと、「大丈夫。名前をちゃんと彫るし、 孫にもその孫にもずっと岡本先生のこと言い伝えます。二つのお墓、同じように手を 合わせ、花を飾るようにします。」と言ってくれた。 なんてありがたいことだろう。ニルギリ見ながら尾瀬の長蔵小屋の布団に包まって眠る なんて、岡本先生『最高の着地』したったなぁ。私ら夫婦、もう前からここに来ること 決まってたんやな。 りんごの花咲く木の下にそっと大きめの石を置き、その下の土になって頂けたら、 先生「それでええぞ。」とおっしゃるような気がしていたが、シェルパ家の手厚い 供養を受けることとなった。ご遺言を守れずこれでいいのかという思いが、大きく 重く残ったが、スッパさんラジュンさんの気持ちを素直に頂いて、神戸のご家族に 報告しよう。 長田高校の教え子のどなたかが、もしもツクチェを通ってトレッキングの旅を されるなら、ここに足を運んで欲しいなあ。 恩師のお墓参り、『ちょっと裏』に 気をつけて。 その夜、先生を無事に送り届けて、裕之さんは五日ぶりにぐっすり眠った。 |
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ツクチェ→コバン→ナウリコット |
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12月29日(火) 6時55分ダウラギリの頂上は朝日に輝いて美しい。今日はナウリコットの ニルガマリさんに会いに行く。2年前は山に草刈りに出ていて彼女に 会えなかったので、必ず会えるように朝のうちに出かける。8時45分 ツクチェからバスに乗ってナウリコットの麓の村「コバン」へ。次女の ソニカちゃんと一緒。ユキちゃんは小学校へ行った。(プレスクールの ようなものがあって、4歳からでも小学校に行ける。ノートと鉛筆を リュックサックに入れて。) バスの中は込み合っていて座る場所も無い。でもバス全体がすごく フレンドリーな雰囲気で、冬休みだろうか若者がいっぱい。かき分けて 入り鉄パイプにしがみつくと即、座席に座っている若いカップルの男性が、 ソニカちゃんを膝に乗せてくれる。すごく自然で何のためらいも双方に無い。 子どもが揺れるバスの中で立っていたらそうするのがあたりまえなんだな。
石段を進み、家の前に着き、ラジュンさんが声をかけると、中から小柄な ほそっこい女性が転がるように飛び出てきた。髪はほつれ、頬は汚れ、目は 見開かれて切ない色をたたえている。両手はナマステと合わされている。 ニルガマリさんに違いないのだが、40歳のはずの人が50歳をとうに 過ぎているかに見える。あの少女が今ここにこのように・・・。 周りに沢山幼い子どもがいる。彼女は私の両手を取り、『来てくれてありがとう!』 というようにささげ持った。岡本先生の写真(若い頃の写真と遺影)と私が2年前に 撮った彼女の娘の写真を取り出して手渡す。そして、ラジュンさんが岡本先生が 亡くなったことを話すと、一瞬のうちに理解し顔がゆがみ、なんとも言えない 悲しい表情になった。耳が聞こえないのにすぐに伝わるなんて・・・。 彼女の悲しい顔を見ながら、荷物を家の中に運び入れる。あたりに近所の 人たちや子どもが取り巻いてきたので、裕之さんとラジュンさんに頼んで 誰も家の中に入らないよう入り口で仁王立ちになって、ガードしてもらう。 私は家に入ってすぐに、岡本先生からの預かり物を彼女に渡した。 もう長くは生きられないだろう。との思いが込められた、お別れの品だった。 彼女は私の手を両手で捧げ持ち、ひたいにこすり付けて頭を何度も下げた。 いま思い出しても泣けてくる。彼女の手をほどき、にぎり返して荷物を取り出す。 家は本当に小さく、土間が一つきりで小さな釜戸に少し火が燃えている。 薄暗いこの部屋で夜は皆が土間に敷物でも敷いて眠るのだろうか。つついっぱい 持って行った衣類を素早く取り出し、チョコレートは見えないように服の下に 置いた。小さな窓から近所の子どもが覗き込んでいる。
「ほな、帰ろうか?」裕之さんに声かけると、「せやな。」彼も同じ気持ちのよう。 夢にまで見たヒマラヤの少女ニルガマリさん。この人に再び会える日があるだろうか? (今思えば、いろいろもっと聞いて、葉子夫人に知らせてあげたかった。岡本先生の話をしたかった。) 満足感と、あまりのあっけなさにふらつくような足取りで彼女の家を後にする。 コバンの村まで降りる。(道は人ひとりが通る道。石段もあり、バイクさえ 通れない。ホテルの物資の荷揚げや村の生活物資はみな人力で上げるのだろうな。)
シェルパ家に帰り、旅の大きな仕事が済んだ安堵感を覚える。 夕方、しきりに『ドスン・ドスン』と音がする。そういえば、昨日の夕方も この音がしていた。何の音だろう?「水車小屋の音やろう。」裕之さんが言う。 「水車小屋は村のはずれやで。そんな音やないで。」下から聞こえてくる。 (私たちの部屋は二階だ)音をたどって一階に降りる。家の入り口横の部屋から その音は響いてくる。「ズシッ、ドスッ、ドスン。」何だか腹わたに響く不気味な音。 ドアをそっと、すこ〜しだけ開けて覗いてみる。わあ〜!ルパナさんが大きな ナタを振り上げている。
丸ごと一頭をすべて無駄なく使い切って命を繋ぐ方法を子どもの時から身に つけさせているのだなぁ。昨夜ご馳走になった『モモ』(ネパールの餃子)も、 骨からはがしてトントン・トントン・・とミンチにしてくれたったんやなぁ、と 思うとありがたくて頭が下がる。「お世話かけてすみません。」そういえば、腸詰の 肉が釜戸の上にぶら下げてあった。二階に上がり、裕之さんに『ナタ』の報告をする。 『日本むかし話』のようだった。 |
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ツクチェ→ティティ村 |
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12月30日(水)
遮るものは何ひとつ無い。アンナプルナの山々がぐるりと私たちの立っているこの 場所から見えるのだ。本当に綺麗で、8,000m峰と7,000m峰の頂上が同時に そこから見える迫力は、表現することが難しい。あたりの蕎麦畑は今はもう作られて いないそうだ。大変な労力をもって造ったが、引き合わなくて放置されるに至ったとか。 荒れるにまかせるのだろうか・・。日本の段々畑の道を歩むのか。 ツクチェに帰ってルパナさんの美味しい昼ごはんを食べる。ほこほこのじゃがいも (日本のメークインと同じ)にカレー粉を付け、ヤクのチーズの入ったおかゆを食べ、 蜂蜜の入ったミルクティーを飲む。本当に美味しい。ツクチェに来てから、日ごとに お肌がつやつやしてきている。裕之さんも表情が明るくなり、笑顔がたくさん 出てきた。これが本当の自然治癒力というものか。しかし、この蜂蜜、絶品だ。 ヒマラヤのお花畑の蜜を蜂たちが集めるのだものなぁ。ミルクも例の牛小屋の牛さんが 出してくれる。
スッパさんがそのロキシーに、特大の冬虫夏草を入れてくれた。頭から草生えた足が いっぱいついた幼虫なんて、普段ならよう食べんけどあ〜ら不思議、ツクチェに来たら これがすごく有り難い。元気が出る。ムシャムシャ。ラジュンさんが高度 4,3000mのヒマラヤの上まで行って採ってきてくれた虫だもの。一回登って 2〜3匹、多い時で10匹、一匹も採れない時もよくあるとか・・・。すごく危険な ところだそうだ。 最高のもてなしを受けて、最後の夜。台所は小さな明かりの中、家族みんなが集まって ルパナさんの料理を食べる。猫のレンジューは釜戸の口でねそべっている。 毎晩、こうしてみなで食事をしているのだなぁ。温かで濃密な家族愛を感じる。その中に 私たちが入り込んでいる。スッパさんが、「あなた達夫婦はもう私たちの家族です。」と 言って下さった。本当に嬉しいなぁ。岡本先生のおかげだなぁ。
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お別れ・ツクチェ→ジョムソン→ポカラ |
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12月31日(金)
帰り支度も整い、滞在中のお礼をルパナさんに渡す。「いらない、いらない!」という 彼女に押し付けて、「ダルバート・ミトツァ。エブリシング・ミトツァ。」「ダンネバット・ ルパナさん。」と言って、来た時のように彼女を抱きしめると、 そっと抱きしめ返してくれた。 スッパさんには、お墓の足しにと少しだが包む。「岡本先生・・・ダンネバット。」 そう言えば通じた。『香典もらうな』やけど、ここはネパール。 かまへんて、きっと。 別れの時が来た。ツクチェの風習に則り、スッパさんとルパナさんから別れの挨拶を 受ける。ロキシーのグラスの口にバターを塗って飲み、黄色い布を首に巻いてもらう。 旅人の無事を祈っての挨拶だ。 ユキちゃんが泣きだした。来たときは腕に飛び込んで きてくれて、別れの時は泣いてくれる。なんてありがたいこと。健やかに大きくなって 下さい。また会おうね。 ぐずぐずしてたら私も泣いてしまう。ラジュンさんはこれから最後の日まで私たちについて 来てくれる。「ナマステ」と手を合わせ、心からお礼を言ってお別れする。 ジョムソンまでの車中は黙りがち。しかし、ものすごい悪路でこれでようパンク せんなぁ・・と感心してしまう。45分でジョムソンに着く。 (行きは岡本先生と歩いて4時間。帰りは楽した。) 空港前のホテルの部屋に荷物を入れると、急に寂しくなってきた。 ホットシャワーを浴びて眠る。 ☆2010年1月1日(土)
12時過ぎ、5時間遅れで飛行機は飛んだ。あぁ、よかった。今日ポカラに行け なかったら、バンダでアウトだった。裕之さんと、「これもきっと岡本先生が飛行機、 飛ばしてくれたったんやな。」と話す。なんだかんだ言って予定通りに移動できて いるもんね!5時間遅れくらい軽い軽い。あっという間のフライトだったが、また ダウラギリが良く見えるように帰りは右側シートに座る。やっぱり凄い。頂上から 雪煙を巻き上げているのが自分の目の高さ近くに見える。絶景。たった25分の フライトでも、スチュワーデスさんが小さなコップに少量の水と飴ひとつを配って くれる。人間、何か食べてると怖さ忘れるねんなぁ。 ポカラ空港に無事着陸。パイロット男前。空港出口で、バンダのためバイク一台も 走っていない道路を前にホテルまでどないして行こう?(ホテルからの出迎えの車も 通れない)と思案していると、自転車を二台傍らに、若い娘が二人話かけてきた。 「韓国人か?」と聞く。「日本人。」「あなた達は?」「中国人。」「この自転車、 ポカラの街中まで乗って行かへん?」と聞いてくる。「5時までに返してくれたら いいから。お金はいらんよ。」と言う。渡りに船やろと言いたそう。 「ええわ、いらん。」と言うと、「お金いらんねんで。車、無いでしょう? これ返すだけよ。」 しつこい。「いらない!」(『あんたら、レンタサイクル借りといて、楽して空港まで 来といて、乗り捨てかい?後は他人に返却させるの?』)身なり上等な、いかにも 金持ちそうな娘たちだ。苦学してる留学生なら、助けてあげる。好かん。播州女は 高飛車な女キライ。自分で何とかするか、他あたってくれ。
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ポカラ→カトマンズ(散策)→バンコック→関空 |
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1月2日(日) 8時45分、ホテルチェックアウト。バンダも解除されていて、タクシーを つかまえる。インド製のスズキアルトが多くなり、車体も新しいものが増えている。 空港のベランダは様々な国の人たちであふれている。ここで何時間も、ある時は 何日も飛行機待ちをするのだ。アンナプルナの山々を眺めたり、本を読んだり、 ひなたぼっこしたりしている。私らダウン着てるのに、半袖一枚の人も多い。 マチャプチャレは雪がほとんど無く、丸裸の岩山になっている。聖なる山、誰も 登ってはいけない神の山なのに。山の神の怒りはどこへ向くのだろうか? 人類みなに向かうかと思うと本当に怖い。贅沢な暮らしを謳歌する私達の 後始末が、ネパールの人々に洪水となって向かうなら、 すごく理不尽なことだ。 12時30分、やっと離陸した。アグニエアーは新品の飛行機で、 スチュワーデスさんも今風スッキリ。ジュースと袋入りナッツのサービスまで あった。こんなの初めて。窓からは、人間がどうやってこんなに高い所まで 耕作できるのだろうかと思われる高地まで畑が山々に広がっている光景を見る。 ネパールでは、植林する習慣がまだほとんど無いとか。燃料資源の枯渇は 差し迫っている。段々畑にネパールの人たちの苦労を思った。飛行機は 30分でカトマンズの、物凄いスモッグの中に機首を突っ込み着陸した。 さっきまでのあの美しいヒマラヤが全く見えなくなった。 ペンションバサナに無事着く。夕方、街歩き。 ダルバール広場もタメルも車の乗り入れ自由になり、もうカトマンズは 喧騒の街となり、益々汚れている。ルツボのごとし。欧米人も日本人も少ない。 ツーリストが非常に少なくなっている。バイクと車の排気ガスで煙っているだけ でなく、無秩序になり、観光を大切にする視点が保てなくなっているように思う。 古い都・ダルバールのプライドは、がなりたてるアンプとクラクションの音に かき消されているように見える。残念なことだ。 1月3日(月)
ネパール最後の夜になった。ホテルの部屋でラジュンさんとゆっくり話しをする。 二度もこうして一緒に旅をして、いろいろな世話をしてもらった事、本当に ありがたかった。彼のおかげで、私たち夫婦の人生に大きな彩りを与えて もらった。岡本先生の遺骨の埋葬でお互いの信頼が深まり、心許す親戚になれた 気がする。 ラジュンさんも同じ気持ちのようで、自分が幼い頃の話をいろいろとしてくれた。 亡くなったお母さんが病気がちで、お母さんを背中に背負い、お父さんが歩いて ポカラまで連れて行って入院された時の話が一番胸を打った。 彼はまだ9歳くらいで、兄のアン君は11歳くらい。お姉さんと留守を守り、 その間のお父さんの郵便配達の仕事は(父のスッパさんはヒマラヤの郵便配達夫 だった。)兄弟二人が代わって務めたそうだ。早朝に起きて、マルファの村まで 配達物を取りに行く。郵便や荷物を背負い、カリガンダキの河原を歩き、ツクチェ まで配達しながら帰る。「吹雪の日が一番つらかった」という。ヒマラヤの真冬に 10歳前後の小さな兄弟が二人で河原を歩く姿を想像して泣けてくる。 食べるものが無くなると、ニワトリが産んだ3〜4個の卵を売って少しの油を買い、 トウモロコシを粉にして練って食べたとか。山仕事もしたとか。厳しい自然の中で、 医者もいない村で生きていく大変さを今更ながらに思った。ポカラは遠い。何度も 入院され、お金も大変だったようだ。医療保険なんて無いのだし。 ラジュンさんが優しいのは、この苦労があるからこそのように思えた。 ネパール最後の夕食。バサナのレストランで私たちの友情に乾杯し、旅のお礼と 帰りの交通費を渡す。 いつまでも心に残る、美しくてまごころに溢れた旅をさせてもらった。 1月4日(火)
「どこの空港で買った?」「カトマンズ。」 「へっ、カトマンズやって。」と小ばかにした言い方。 「何やとぉ〜!行きしな バンコック空港で買ったウイスキーはカトマンズに持ち込めたぞ〜!!」 裕之さん怒る。 「あきまへん。」問答の末、怒りにまかせて大勢見てる中 「ほんなら、ここでフタ開けて飲んだる!!」裕之は言った。見てる人も おかしかったやろ、私は吹き出した。 空港職員もニガ笑い。よっぽど一緒に 飲んだろか思たけど、理性ある妻は夫をなだめ、没収箱に入れさせた。 あぁ、しまった!開けて一口でも夫婦で代わる代わる口飲みしとけばよかった。 よい思いでが出来るのに。 きっとあのオールドパーは空港内の 誰かの口に入るのだ。
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旅を終えて |
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旅を終えて 岡本先生に今までどれだけの葉書や手紙、ちいさなメモを頂いただろうか・・・数え切れない。 いつも、温かな気づかいと励ましにあふれていた。 万年筆で書かれたその字をみるたび、安心し、生きることへの肯定感をもった。 ご夫妻は、私たち夫婦のこれから先を照らす光だ。 亡くなってもなお同じ光を放って下さるが、自力で光を生みださなくてはならなくなった。 もう、あの便りはもらえないのだから。 自分たちで歩いていこう。そして、自分たちでネパールへまた行こう。ラジュンさんに会いに。 ヒマラヤの少女ニルガマリさんの娘に会いに。岡本先生に会いに。 自分の生きている場所で真剣に誠実に生きていく尊さを教えてもらった。 「願いは叶う。」葉子夫人の言葉だ。 裕之さんがまたネパールが恋しくなるように願いつづけてみよう。冬虫夏草だ。
神戸悠苑にて 帰国後、長田高校の教え子19回生の方々に、神戸の中華料理店「悠苑」に呼んでもらい、 旅の報告をした。みなさん本当に素晴らしい方々で、岡本先生を送り届けたことを労って 下さった。ネパールだけでなく、素敵な出逢いを与えてもらってとても幸せだ。 その報告会でのこと。 ニルギリを正面にした絶景の墓地とシェルパ家の大きなお墓の写真を見つつ、葉子夫人はおっしゃった。 「忍さんのお墓、ちと 大きいてもええなぁ。」 「え〜っ!!」 わたしの『ここ掘れワンワン』は、何やったんや??? 「お墓いりません!」「どないしてもと言うなら、小さいお墓に!!」て、 ブンブン 手ぇ振ったんは、何んやったんや? ひっくり返って爆笑した。 |
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2010年12月11日 岡本先生を「忍ぶ会」にて |
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岡本先生の一周忌を偲んで、神戸悠園で「忍ぶ会」が執り行われました。 代用教員時代の教え子の方や、県立尼崎定時制高校時代の方々、そして県立長田高校の みなさん方が集まり、素晴らしい「忍ぶ会」でした。どんな先生・恩師だったかを、 みなさん 口々にマイク離さず語られました。 葉子夫人も娘さんも参加されたみなさんも、瞳に涙が光っているような語り口でした。 私たち夫婦も、遺骨埋葬の旅のご報告と、ツクチェから 「岡本先生のお墓できました。」
と連絡がありました事をご報告しました。みなさん、しみじみと喜んでくださいました。あの、断崖絶壁の上、天空の墓地まで石や漆喰を運び上げ、積み上げて岡本先生の名を 刻んで下さったかと思うと、話しながら胸がいっぱいになりました。 会場のみなさんも、プロジェクタ−から写し出される墓地の写真を見ながら、 同じ思いを共有して下さったようでした。 会の終わりには、みなさま方に「今度ツクチェに行く時に、岡本先生のお墓を建立して 下さったシェルパ家のみなさんに届けてね!」と、会費の一部を私たち夫婦に託されました。 胸いっぱいでお預かりいたしました。 2011年冬 年末から年始にかけて13日間の予定でツクチェにお墓参りに行くことを計画中です。 みなさま方からのご厚志を届けねばなりません。真面目一筋の夫婦ですから、 亡くなる前に最後に岡本先生から「わしの跡継ぎができた。」と大変喜んでいただいた ことですっかりその気になっております。はてさて、無事に行けますかどうか・・・。 トレッキングの許可証は、早めに取りますね! 長い長い『顛末記』をここまで読んでくださって本当にありがとうございました。 辛抱づよいあなたに心から感謝いたします。あなたによいことがいっぱいありますように。 <埋葬顛末記の続編 『岡本先生のお墓参り』 を お届け できるように頑張ります。お待ち下さいね!!> |
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